宗教の事件 77 橋本治「宗教なんかこわくない!」

●愛情に関する一章・・・・・・残念ながら、これは私の独壇場だ

人間の大人と子供の間に対立があって、その対立が“隠されている”のなら、話はいたって簡単だ。世の中と一体化して自分の頭でものを考えなくなってしまった大人”が“自分の頭でものを考えようとして孤独に陥ってしまった子供を、愛そうとしないからだ。
なにしろ、“子供は孤独に陥っている”んだから、当然のごとく“愛情に飢えている”。“愛情に飢えている人間”が一方にいて、もう一方に“それに知らん顔をしている人間”がいれば、一方が他方を恨むのは当たり前だ。そしてそれが、“大人”と“子供”であるのなら、なおのことだ。

《大人と子供は、大人の側から見れば「対立しない」が、子供の側から見れば「対立する」》というのは、当然のことである。“愛情に関するギャップ”は、この《  》の中にすべて収まっていると言ってもいいだろう。

まず、この対立は、“大人と子供”であって、親と子供ではないということ。

次に、ここには“愛情”という言葉が登場しないこと。《大人と子供は、大人の側から見れば「対立しない」が、子供の側から見れば「対立する」》の中には、“対立”という言葉だけあって、“愛情”という言葉がない。“ギャップ”というのは、発見するまでが大変で、発見してしまえば、その後はなんとかするだけのもんなのだが、発見が大変で、しかもごテーネーに“隠されている”という点で、これは正真正銘の、“愛情に関するギャップ”なのだ。“愛情”というものが、これもまた、そういうもんだったりもする。

世間に、「親は子供を愛さなければならない」という常識はあっても、「大人は子供を愛さなければならない」は、あんまりない。こういうことになると、必ず、「なんで他人の子を愛さなくちゃならない?」になる。日本では、いつの間にか「世の中が子どもを育てる」という発想がなくなってしまったので、「他人の子供を叱ろう」という運動だって生まれる。こういう“運動”が生まれるということは、“愛する”以前に、“関わりを持つ”ということが欠落していることなのだが、困ったもんだ。こんなことまで言われなきゃならない。「大人は子供を愛さなければならない」は、もちろん、「世の中は子供を育てなければならない」で、この“育てる”とは、もちろん“一人前になれるようにする”ということなのだ。

そういう「大人と子供の愛情に関する認識不足」というギャップがある一方、“子供”ということに関して言えば、「見てくれがどうあっても子供じゃない」という、“子供に関する認識のギャップ”だってある。

「自分はもう“大人”だ」と主張したい子供は、その“証拠”を見せたがっている。その“証拠”は、「もう子供じゃないんだから、“愛情”なんてちゃんちゃらおかしいぜ」だったりもする。そして、そういう“子供”が、なんで「もう子供じゃない」ということを言いたがるのかというと、「子供をやっててもちっともいいことがないから」だ。つまり、「大人の要求を押しつけられるだけで、愛情というものを一向に与えられていない」ということが、今の子供達にはある・・・・・・「今の“まだ子供でいるような人間達”の過去に」と言うべきかもしれないが。

つまり“愛情”を必要とする子供ほど“愛情の必要”を隠す。だから、「愛情がないからつまんない、つらい」という“当事者の言葉”より、「大人と子供の間に対立があるという、“第三者の言葉を”選ぶ。オウム真理教の事件であれこれの“論”があって、そこに“愛情”がないという言葉がほとんど登場しないのは、そのためだろう。それが出て来たらおしまいだ。正体がバレてしまう。

私は、“愛情”というものにピンとこない人間が宗教に入るんだと、勝手に思っている。だから当然、「私のところはあんな事件なんか起こさない、私のところにはちゃんと“愛情”がある」と言いたがる、他の宗教教団がいくらでもあるだろうなと、私は思う。問題は、「そこにしか“愛情という抽象的なもの”がない」ことかもしれないじゃないか。


(つづく)


橋本治 「宗教なんかこわくない!」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?