「ブルシット・ジョブ」生活を労働から切り離すためのベーシックインカ厶

デヴィッド・グレーバー「ブルシット・ジョブ」p357
ベーシックインカムの究極的な目的は、生活を労働から切り離すことにある。実施するあらゆる国で官僚制の規模の大幅な縮小が、すぐに効果としてもたらされるだろう。レスリーの事例が示しているように、膨大な量の政府機構――それとともに、富める社会のほとんどにおいてそれを取り巻いている半官半民のNGО団体は貧しい人びとを恥じ入らせるためだけに存在している。その大部分が必要のないグローバル労働機会を支えるためにプレイされている、とんでもなく高負担のモラル・ゲームなのである、

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キャンディ
こういう例もあります。最近、わたしは子どもをひとりぐらいは養育できるかもしれないと考えています。そこで補助について調べてみました。とても充実しているのです。公営アパートに住めるし、それにくわえて子どもの世話のために週に250ポンドもらえるのです。でもわたしは気づきました。ちょっと待てよ、とね。ひとりの子どものために、年に13000ポンドとアパートが支給されるというのです。おそらくたいていの場合、子どもの親はそのような資産をもっていません。もし親のほうにそうした支給がおこなわれるならば、そもそも子どもを育てるにあたって直面する多くの問題にもぶつからずにすんだでしょう。

それに、もちろん、そこでは、子どもの養育(里子制度)をお膳立てし監視する公務員の給料やその公務員が働く建物やオフィスの管轄、そのような公務員を監視・監理する諸機関、そのような機関での職員が働く建物やオフィスの管理などにかかる費用については、まったく考慮されていないのです。

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ここでは、実際にベーシックインカムというプログラムがどのように実行されるかについての議論には立ち入れない。もしそれがほとんどの人びとにとって信じがたくおもえるのであれば(「ところでその財源はどこにあるの?」)、それは主に、次のような点について相当に誤った考えがわたしたちのあいだで浸透しているからである。すなわち、お金とはなんであるのか、お金はどのようにして生産されるのか、税はいったいなんのために存在しているのかなど、本書の射程をはるかに超える問題にかんしての誤った考えである。それに重なり、普遍的な所得水準とはなんであるのか、なぜそれを実施すべきなのかといったことについて根本的に異なる見方が存在することによって、混乱はさらに増大する。無償教育や健康保険のような既存の福祉国家政策を完全に買いたいしあらゆるものを市場に包括させるための口実として控えめな手当てを給付することを狙った保守ヴァージョンから、レスリーやキャンディが支持するような、国民保健サービスのような現存する無条件補償はそのままにしておく、ラディカル・ヴァージョンにいたるまで、根本的に異なる見方が存在しているのである。ベーシックインカムを契約の方法として考えるひともいれば、無条件性の領域を拡大する方法として考えるひともいる。わたし自身が指示できるのは、後者のほうである。わたし自身の政治的立場は、はっきりと反国家主義である。つまりアナキストとして、国家の完全なる解体を望んでいるし、そこにいたるまで、国家にいま以上の権力を与えるような政策には関心がない。しかし、にもかかわらず、この後者のヴァージョンは支持したいのである。

奇妙に聞こえるかもしれないが、わたしがベーシックインカムを支持することができるのは、このわたしの政治的立場のためである。お金をつくり分配しているのは政府(あるいは中央銀行のような準国家機構)であるからして、ベーシックインカムは国家権力の大幅な拡大を招くようにおもわれるかもしれない。ところが、実際にはその逆である。政府のほとんどの部署――正確には一般市民を道徳的に監視する役割を重く担っているために、もっとも介入的に不快に感じられているセクション――が、ただちに不必要となり、端的に閉鎖できるはずなのである。たしかに、おびただしい数の政府職員やレスリーのような福利厚生管理士は現在の職から放り出されるだろうが、そのような人たちもまた全員ベーシックインカムを支給されるはずである。おそらく、そのような人びとのなかには、レスリーが示唆したように、ソーラーパネルを導入したり、あるいは癌の治療法を発見したりするような、心から重要と思えるなにごとかをみいだすにいたるひともあるだろう。しかし、一方で、ジャグ・バンドを結成しようが、アンティーク家具を修繕しようが、洞窟探検をおこなおうが、マヤ族の象形文字を翻訳しようが、高齢セックスの世界記録を打ち立てようとしようが、なんの問題はない。好きなことをやればよいのだ!結局、なにをやることになるにしても、履歴書作成セミナーに遅刻した失業者に罰則を課したり、ホームレスが三種類のIDをもっているかどうかチェックしたりするよりも、みんな、ほぼ確実に幸福になるはずだ。そして、かれらの幸福は周囲にも跳ね返ってくるだろう。

控えめなベーシックインカムのプログラムでさえ、もっとも根本的な変革にむかう最初の一歩となりうる。すなわち、労働と生活から完全に引き剥がすことである。前章でみたように、労働の内容にかかわらずあらゆる人びとに同一の報酬を支払うべきだという主張は、道徳的にも擁護できるものである。とはいえ、前章で引用した議論においては、労働に対して報酬を受け取っているということが前提とされている。人びとがどれだけ死にどれだけ多くのものを生産したのかを測定する必要はないとしても、この場合、最低限、人びとが実際に働いているのかどうかと監視するための官僚制のようなものが必要とされるだろう。(一方)完全なベーシックインカムによるならば、万人に妥当な生活水準が提供され、賃金労働をおこなったりモノを売ったりしてさらなる富を追求するか、それとも自分の時間でなにか別のことをするか、それにかんしては個人の意思にゆだねられる。こうして、労働の強制は排除されるであろう。ひるがえって、それによってより好ましい財の分配方法が切り拓かれるかもしれない(貨幣はつまるところ配給(割り当て)切符なわけであるが、理想的な世界では、おそらく可能なかぎり配給への依存は少なくしたいと考えられているだろう)。こうしたことのすべては、あきらかにつぎのような想定にもとづいている。すなわち、人間は強制がなくとも労働をおこなうことであろう。ないし、少なくとも他者にとって有用ないし便益をもたらすと感じていることをおこなうであろう、と。わたしたちがみてきたように、これは理に適った想定である。ほとんどのひとは、ぼーっとテレビの前に座って毎日をすごすことを選ばないであろうし、完全なる寄生生活を本当に好む一握りの人間が社会の重圧になることもないだろう。というのも、人びとが安逸な安全な状態を維持するのに必要とされる労働の総量は、とてつもなく大きなものではないからである。実質的な必要量をはるかに超えて働くことをやめない強迫的な仕事中毒の人びとが、気まぐれな怠け者たちの文を埋め合わせしてくれるであろう。

最後に、無条件の普遍的サポートは、本書で何度も言及してきた二つの論点と直接的に関係している。第一の論点は、ヒエラルキー的労働組織のサドマゾヒズム的力学である――この力学は、だれもが自身の労働が無意味であると知っているとき、急激に悪化する傾向がある。働く人びとの生活のなかにある日常的な惨めさの多くが直接に由来するのは、ここである。第四章でわたしは、日常生活におけるサドマゾヒズムというリン・チャンサーの概念を参照した。つねにセーフティワードの存在する実際のBDSMプレイとは異なり、「ノーマル」な人間が同じ力学にはまりこんだとき、そうした簡単な脱出方法は存在しないという点がとくに重要である。

「上司に『オレンジ』ということはできない」のである。
この洞察は重要である。あらゆる社会的解放の理論の基礎となりうるとさえわたしはいつも思っている。フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、1984年に悲劇的な死を遂げる直前、この方向にむかっていたと、わたしは考えたい。彼を知る人びとによれば、BDSMをみいだしてフーコーの性格は大きく変貌したというが、悪名高かった用心深く冷淡なかれの性格は、突然明るく、大らかで友好的なものに変わったのである――彼の理論的なアイデアはまた移行途上にあったが、それを完全に実現できることはできなかった。もちろん、フーコーはなにを於いても権力の理論家として有名である。権力について、それはあらゆる人間関係を貫いているものとみなし、人間の社会性の基本的実体とすら考えていた。というのも、フーコーは権力を単純に「他者の行為への働きかけ」の問題と定義することもあったからである。このことからいつも、奇妙なパラドックスが生みだされてきた。権力に対抗する反権威主義であるような書きぶりをみせながら、社会生活はそれなくして成り立ちえないというように権力を定義したからである。そのキャリアの終点で、彼は「権力」と「支配」とを区別することによってそのジレンマを解決しようとしたようにおもわれる。権力は「戦略的ゲーム」の問題にすぎないとしたのである。あらゆる人びとは常に権力の諸ゲームをプレイしており、そこから脱出することはむずかしいが、そのようなゲームをプレイすることについてはなにもおかしなところはない。次の引用は、彼の最後のインタビューからのものである。

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権力は悪ではありません。権力と派戦略的ゲームです。われわれは、権力が悪ではないことを非常によく知っています。たとえば、性的な関係や様々な愛の関係をとってみましょう。ある種開かれた戦略的ゲームにおいて、つまり物事が逆転されうるところで、別の人間に権力を行使することは、悪ではありません。これは、愛や情熱の性的快楽に属する事柄なのです…。
私は、次の二つのことを区別しなければならないと思います。つまり、諸々の戦略的ゲーム――これは、ある人びとが他の人びとの行為を規定するという事実に帰着するものです――としての権力諸関係と、さまざまな支配の状態との二つです。後のほうは、吾々が普通「権力」と呼んでいるものです。

デヴィッド・グレーバー「ブルシット・ジョブ」

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