宗教の事件 92 橋本治「宗教なんかこわくない!」

今の日本で人間の(特に若い人間の)感情がおかしくなっているのは、日常生活の中にノーマルな人間関係がないからだ。「家族が一番あたたかい」などといっても、所詮家族は、“閉鎖的な人間集団のひとつ”でしかないのだ。家族の外にノーマルな人間関係がなかったら、人間は家の中から外へ出ていけない。そして“家の外にある一番ありふれた人間関係の場所”は、“労働の場所”なのだ。≪人間は“生産する”という生活体型の中で“人間に関する真実や事実”を学ぶ≫なのだ。これを考えない限り、“仲間”も“恋愛”もないだろう。そういう愛情の濃度の高い関係を作るためには、一番最初の“ただのありふれた人間関係”が基本になければいけないのだ。それがなければ、人間は“人間関係”そのものを誤ってとらえてしまう。1995年の日本を震撼させたオウム真理教事件は、まさに、そのことを言っているのではないだろうか?なにしろこの事件には、「出家も解脱もいいけどさ、それじゃあんた、人間として失格だよ」の一言が出てこないのだから。
この一言がまともに通用すれば、こんなひどい事態にはならなかっただろう。「“人間”を考える」というのなら、その前提として、まずこの一言の中にある“人間”を、人間の基準にするべきだ・・・・・・「出家も解脱もいいけどさ、それじゃあんた、人間として失格だよ」の中の“人間”を。

人間がお互いにつきあっていない。つきあえていない。“濃厚すぎる関係”だけがあって、人間関係というものはそういうものだと、勘違いしている。だから、宗教という濃厚の中で、オウムの信者はバラバラになっている。「それを知らないで“大人”もへったくれもない」という事実が、平然と隠されている。だから“生産の空洞化”という由々しい事態が、「関係ないじゃん」で見過ごされている。

この人間関係の欠落を放置して、空洞化した日本でもう一度“生産”を再開するとしたら、一体誰がどのようにして、“生産”というものを知らない人間に、その生産技術を教えるのだろうか?教えられるわけがない。だから、一度空洞化した日本の生産は、そのまま再開されることなく、滅びるのだ。こんな恐ろしい未来を目の前にして、それでも平然としていられる会社人間達の胸の内が分からない。

生産の空洞化は、いたずらな“個人の神秘化”を招いて、“個人の自由”は“神聖ニシテ侵スベカラズ”のレベルにまで達してしまった。「お前ごとき人間の言う“個人の自由”を野放しにしたら、お前は人を殺しても“自由”でいられることになるな」のレベルまで、実際問題、来てしまっているというのが、オウム真理教事件のある日本だ。

「こんな子供達がなぜ生まれたんだろう?」は「なぜこんな子供達に育ててしまったのだろう?」だ。子供を育てるのは、社会全体の仕事なんだ。それを「親の責任」といって、孤立状態の中に会った親達を責められるんだろうか?それを「学校の責任」といって、学校にすべてを預けっぱなしにしていた親の責任はまぬがれるのだろうか?それを「今の会社の責任」といって、そういう社会になるように方向づけてしまった人間の責任は問われないんだろうか?それを「社会の責任」といって、なんらかの形で社会と関わりを持っているはずの日本人一人一人の責任は問われないんだろうか?そしてそれを「周囲の責任」にして、愚かだった当人の責任は問われないんだろうか?ただ刑事事件である部分だけを問題にして、すべての処置を警察に任せるだけにして、それで「あれは特殊な犯罪」といっていられるんだろうか?情けない“結論”になってしまった。

情けないことに我々は、このとんでもない異常事件を目の前にして、ただ「分からない・・・・・・」を連発している多だけなのである。

関係がないから、分からないのだ。だから「関係がある」と思わなければならないのだ。

逆説的なことを言えば、ハイテク日本の貿易上の勝利は、人手不足から起こった。人手が足りないから機械化で補って、生産する会社日本は隆盛を迎えた。そうなって、仕事をいやがっていた若者達は、カネやタイコで会社に迎え入れられた。彼らの入った会社に、ロクな仕事はない。肝心なところは、みんな機械がやってしまうからである。機械が金儲けをして、人間は自分の取り分を取るだけになった。働かなくても給料は入る。給料とは、「会社に入ってやった自分がもらう、当然の権利」になったのである。そこから、高賃金高物価の日本が生まれて、生産の空洞化が怒る。そして、その清算をとり戻そうとしても、機械がその役割を奪っている。「機械があって人間の数が少ない」・・・・・・それがこの日本の生産の現場である。ハイテクの工場から、小さな田んぼまで・・・・・・。


生産の場に人間がいない。だから生産の場が寂しい。だから生産の場に入っていくのには決意がいる。生産の場に入ることは、今や孤独を決意することでもある。だから、生産の空洞はジリジリと広がる。

もう一度考え直した方がいい。「なぜ人手不足は起こったのか?」と。既にその時、若い人間は「自分が大事」で、生産の現場はそんな人間達の声を汲みとれなかったのだ。だから、その仕事は嫌われた。「3k」という、仕事を忌避するくだらない条件が、本当にその職場を衰退させたのだ。自分の頭でものを考えるための足腰を強くさせるはずの職場が、その機能を失っていた。それだからこそ、自分の頭でものを考えようとした若いやつらのその“考え”は、妄想というところにしか行き着けなかったのだ。

生産の場に人間を戻すためには、機械を取り除くしかないだろう。もうすでに世界に十分物はあふれて、そんなに“数”を作り出す必要などないのだ。生産の場は、今や“人間の生活のある場”に復活しなければならない。それをするために、量産しか能のない機械を追放した方がいい。そうして、「人手不足や過疎はなぜ起こったか?」を考えてみればいい。そうすれば、おのずとその答は見えてくるのだと、私は思う。

<了>

橋本治 「宗教なんかこわくない!」

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