宗教の事件 35 西尾幹二「自由の恐怖」

●欧米各国の宗教教育事情

政治と宗教の関係は国によって異なり、文化によって異なり、それぞれが正しく、どれかが秀れているということはなく、優劣の判断の成り立たない相対領域に属していると考えるべきであろう。
フランスで公教育の中に宗教的なしるしが取り込まれないように神経質なまでに敏感であることは、前にもふれた、フランスの公立学校には、当然、宗教の時間はない。教科書にもキリスト教色はほとんど認められない。ただ、日曜のほかに水曜を休日とし、この日子供たちはカテシスム(公教要理)を学習しに神父さんのところへ赴く。他方では九割の生徒がこの習慣をまだ守っているそうだが、当然パリでは比率はぐっと低い。教育を国家の分担領域と教会の分担領域とにきっかり二つに分けるこの分離政策は、フランスの「政教分離」の一例である。教会権力を介在させないフランスの国家意識、公感覚はこうしてつくられると、フランス人は鼻高々だが、さて水曜日だけを教会に与えてやるといっても、一人の子供の頭の内部では二つに分けられないので、どことなく機械的な措置に見えないだろうか。

というのも、お隣のドイツでは事情はがらりと変わっても、格別なにも不都合はないからである。すべての初等中等教育において宗教教育の時間を設けることが、義務として憲法に定められてさえいる。子供を参加させるかどうかは親の意志いかんで、教師の強制は禁じられているが、私の知る限り、ドイツのたいていの家庭はこの制度を受け入れている。低学年の教科書にキリスト教色は極めて濃い。教室の壁に十字架がかかっているのは珍しくない。今は「宗派別学校」は廃止され、カトリック信徒の子も、プロテスタント信徒の子も、同じ一つの学校に学ぶが、宗教の時間だけは別々のグループに分かれる。前者はたいてい礼拝に教会に行くので、学校から離れ、後者は学校に残って、話を聞くか、授業を続ける。トルコ人労働者の子にはコーランが教えられている。どのグループにも属さない家庭の子も当然いるわけで、そのため宗教の時間はたいてい一時間目に設けられ、彼らは遅れて登校すればよいという仕組みになっていると聞く。

日本にいるあるフランス人の女性にドイツの右の事例を話したら、「信じられない!」という叫び声を上げた。フランス人だけでなく、日本人のフランス文化研究者の多くも、フランスのいわゆる中華思想に影響されているので、右の話を聞くと、「ドイツはやっぱり後進国だ!」と決めつけ、それ以上考えないかもしれない。しかしはたしてそうだろうか。

政治と宗教の関係に優劣判定を持ち込まない文化相対主義の見地……キリスト教国でもない日本にとって、これ以外のどんな見地が可能であろう!……を明らかにするために、アメリカの事例を引き合いに出すのがより適切かと思われる。政教分離が比較的よく行なわれている国と、それほど厳密に行なわれていない国とに分けるとしたら、前者にアメリカとフランスが入り、後者にイギリスとドイツとイタリアがあると一般的に考えることができるからである。

アメリカの公立学校はフランスの公立学校と同じように、宗教教育を公然と取り入れることができないとされている。けれどもフランスほど厳格かというと、そうもいえない。公立学校で聖書を朗読することについては、州政府によって判定が異なり、連邦全体としては統一見解はないのだが、全州のうち約半数の州はこれを承認している。また、公権力が宗教学校をどこまで援助しうるかについても、右と同じことがいえる。宗教学校の生徒を公立学校の生徒と同じ条件で、無料バスで運ぶことができるか否かに関して法律的に争われたことがあった。この場合も州によって判決が異なり、連邦裁判所もあまり一貫した主張は打ち出せないで終わったと聞く。

宗教系の私立学校が巨額の政府援助を受けても憲法論争の起こらない日本に比べると、アメリカはずいぶん細かいところにまで吟味の目が及んでいるのだと、日本人はむしろその点に驚くかもしれないが、しかしフランスに比べると、アメリカははるかにルーズで、国が宗教にたいし敵意を抱くということがない。教会と国家との協調や相互依存の関係をむしろ大切にしている。アメリカ大統領が就任式で聖書に手を置いて宣誓することはよく知られているが、連邦会議の両院にも専属の牧師がいて、毎日議事について祈祷している。海軍兵学校や陸軍士官学校にもやはり専属の牧師がいて、さかんな宗教活動を行っている。密接な相互協力関係が国家と教会との間に成り立っていることがここから窺い知ることができる。

アメリカもフランスも「政教分離」を建前にしているが、政治と宗教、国家と教会との関係がアメリカの場合には友好的であるのに反し、フランスの場合は非友好的であると定義することが一応許されるであろう。また分離そのものも、アメリカの場合は相対的で、現実的であるのに反し、フランスの場合は絶対的で、理念的であるといってもいい。なぜそのような違いが出てくるのかというと、歴史的原体験の相違に由来するというほかない。メイ・フラワー号で新大陸に渡来した清教徒たちにとって、宗教的であることと進歩的であることとは一つであって、矛盾していない。しかし南ヨーロッパに起こった反カトリック暴動という性格を持つ「革命」の嫡子たちにとって、宗教的であることはどこまでも歴史の進歩に逆行し、フランス文化を近代の最前線に立たせてきた……と信じたがる!……栄光のポジションに相反するとみなされるからであろう。それでいてフランスは一方では信仰心の篤いカトリック文化国である。そのことと、それゆえに信仰を私的領域に封じ込め、政治という公的領域はそれ自体として別個に成立させようとする相反した力学が激しく働くことがどう繋がるのか、私には深いところはよく分らない。しかしいずれにしても、フランスの非友好的政教関係はこの国の歴史文化の一形態であり、それはアメリカの友好的政教関係がアメリカの歴史文化の一形態であることとまったく同一である。それぞれの国、それぞれの文化には、それぞれの異なる政教関係がある。そう考えるのが自然であろう。そこに優劣の尺度を持ち込むことはあってはならない。


(つづく)


西尾幹二「自由の恐怖」(文藝春秋)

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