大日本帝国の人びと③

加藤 僕は、「赴かないということが断じて正しい」というのも、やっぱり違うと思う。選択の内容と選択という行為がそのおかれた文脈でもつ意味がちがうわけだから、正しいか正しくないかを、現実にその人間の選択をもつ意味をみないで、あらかじめ決めることはできない。これは自分にとって明らかに不正な戦争だ、と答える場合、その戦争に自分は行きたくない、どうしようか、と思ってさんざん迷う、ということに権利がある。これが自分にとって明らかに不正な戦争だ、とは思えないことにも、情報が限られているなどの事情がありうるから、権利はある。そのうえで、その人は迷ったあげく仕方なく応召するかもしれないし、どこかに逐電するかもしれない。だけど、応召するか逐電するかという点だけをもって、それをもって正しいとか間違っているとか、そういうことは言えない。

橋爪 「応召するのは断じて正しい」と言いましたが、応召しないという選択のなかにも「断じて正しい」場合があると、私は思いますよ。「断じて正しい」あり方が、ひと通りと思っているわけではないのです、私は。どうもそこがさきほどから、紛糾のタネになっていると思う。
あと、ここで公民と書いたのは、臣民と書きたくなかったからそうしたんですが。

加藤 僕の考えでいうと、近代国家のメンバーには、その中に国民としての要因と、それを超える公民としての要因の両方があって、それが明文化されてなくても最初の約束事だと思うんです。戦争に赴くのは「公民としての義務である」というし、国民と公民がまったくイコールで結ばれて、そこが見えなくなっちゃうんじゃないだろうか。

橋爪 そうではなくて、憲法には国民(臣民)としての義務と書いてあるが、それを公民としての義務としてとりだせる、と言っているのです。

竹田 橋爪さんの、天皇には法的責任はない、他の責任もない、天皇に命令されたら戦争にいくのが公民の義務である、という一連の考え方の土台には、僕の受けとり方が間違っているのかもしれないけれど、戦前の日本も基本的に近代国家であると認めるべきであるという考え方があって、そうであるかぎりは、そこで成立していた法の体系やルールの体系を認め、それを基準に考える以外にはないんだという原則があるようには気がする。
でも、われわれが戦争責任を考えるとき、別に誰かを追及しているというモチーフではなく、この国がそういう戦争をしたことをどう考えるかというとき、「やっぱりあの戦争はまずかったのではないか」という感じがどこかにある。そして、いわばそのことの象徴として、そのときトップであった天皇について、法的責任ではないとしても、なんらかの責任があるのではないかと考えざるをえない。そういう感覚がどうしても残る。
そこからいうと、あの社会も基本的に市民社会だったから、事柄の判断の基準を当時の法やルールにおいて考えなくてはいけない。だから天皇には法制度上からいって責任がないし、また市民戦争にいくのは公民の義務でこれはまったく正しい、という考え方は、結局、その感覚に与えない。つまり、「当時の法やルールにおいて考えなくてはいけない」というためには、一定の条件があると思う。あのときの日本市民のなかの誰かが、かりに「これはおかしい」と思ったとき、それを自由に表明できるような通路があったかどうか、市民が市民として参加することができる議会があったかどうか。そういうガヴァナビリティや責任の体系がそれなりに保証されている社会であり、その市民が合意したうえで天皇を認めていたのかどうか、そういう条件が必要だと思う。そういう条件をみたしていれば橋爪さんの説も成り立つと思う。つまりそもそも、戦前の日本を市民社会の条件を十分にみたすものとしては肯定できないから、戦争責任なんてことをわれわれは考えているんじゃないかな。

橋爪 もちろんそうなんですけど、市民社会として、言論の自由がないなど不完全であるから、そこに公民としての義務がなかった、と考えるのもまた極端なのではありませんか。
そこで「天皇の命令で、戦地に赴いた人びとは断じて正しい。それは、公民としての義務である」と書いた一行前に、私が書いたことをみていただきたいんだが、そこには「三百万の死者をどう考えるか」と書いてある。つまり、それは、三百万人の死者について考えるときの順番なんです。三百万の死者というのは、戦死したものの総数であり、その人たちは大東亜戦争に参加していた軍人たちです。

加藤 千歳の死者も入っている。

橋爪 うん、その人たちは、少なくとも主体的に大東亜戦争という戦争をになった。だから、その死者たちが、その戦争の性質を帯びたまま死んでいる。そのため彼らは、間違っており、汚れており、という文脈で語られる場合がある。それで私は、それを掘り起こすための順序として、その死者たちの内実はどのような死者たちであったのかということを考えているわけです。大部分の人びとは迷いながら、そして個人的な犠牲を払って、やむをえず戦地に赴いて死んだ人たちだと私は思う。だから、その実態についての像をまず結ぼうと、そういう順序でここは書いてあるわけです。

竹田 なるほど、それはよくわかる。間違った軍国主義にかぶれてわるい戦争にいった日本の兵士たちはみな悪かった、という言い方から彼らを擁護しようとする橋爪さんの姿勢を「断じて正しい」と思います。でも、その「断じて正しい」のポイントはなにだろう、という感じがやっぱり残る。つまり、そのポイントが当時の「合法性」から言って、ということだとしたら、天皇の法的責任なしというのとほとんど似てるよね。「三百万人の死者は戦争に加担したんだ」というような言い方は、僕も全然認めない。だから橋爪さんとは、その先のところで違いがある。

(つづく)

加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣「天皇の戦争責任」

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