マリオ・バルガス・リョサ 楽園への道

年とともに緑の部分が劣化していく古いフレスコ画の雰囲気を出すために、絵の上部の両端を淡い黄色に塗ったのは、うまくいった。背景のブルーとヴェロナ風グリーンを基調とした風景の、調和のとれた色調も成功だった。そこには触手か蛇がくねくねと踊っているかのように、木の枝や幹が描かれていた。木々だけが絵の中で攻撃的な存在だった。それに反して動物たちは穏やかだ。猫や山羊、犬に鳥たちは、人間と仲よく共存している。画面の左にうずくまって死を待つ、あるいはすでに死んでいるのかもしれない老婆も、この老婆は、おまえにとって忘れがたいペルーのミイラの姿態からとったものだが、老婆は自らの死を受け入れているかのようだ。

中景のピンクのチュニカに身を包んだ二人の人物が、知識の木のそばで時の流れと反対の方向へ、死から生に向って歩いているのはどういう意味なのだろうか。おまえは描きながら、その二人の人物は自分と不幸なアリーヌかもしれないと思ったね。だが、そうではない。あのひそひそ話をしている人物は、おまえとおまえの死んだ娘ではない。タヒチ人でもない。どこか不吉で、粗野で、狡猾で、怒りっぽそうで、周りには無関心そうに二人で内緒話をしていて、自分たちだけのことに夢中になっている。彼は目を閉じて自らの魂の奥を探った。その二人連れによっておまえは何を表現しようとしたのだ、コケ。わからなかった。これからもおまえにはわからないだろう。いい徴候だよ。単におまえの絵、考え、想像力、おまえの熟練した作業だけで、おまえのすぐれた作品を描いたのではなかった。魂の底から湧き上がってくる漠然とした力、おまえの沸騰する情熱、おまえの本能の激昂、並外れた作品は、突然こみ上げてくるそのような衝動によって描かれるのだ。絵はけっして死ぬことはないんだよ、コケ。マネのオランピアのように。

マリオ・バルガス・リョサ「楽園への道 ―われわれは何者か」

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