ポコンと別の意味が

辺見庸 ミンダナオ島で同胞の人肉を食った残留日本兵を掃討した老人に会ったんですが、われわれの常識ではとうてい計り知れないものを持った老人で、どうしてこの人はこういう問題を笑いながら話すのか、私は最後まで書けなかったんですね。民族性や風土かもしれないけれど、それだったら文化人類学でもやればいいんで、僕はそうは思わないですね。不思議だな、すげえなあ、ってだけ思う。彼はたぶん、人食いにそんなにこだわってないんですよ。こだわってない世界がもう一方にあって、「野火」の大岡昇平や「ひかりごけ」の武田泰淳のようにこだわる人がいる。日本人はこだわりますね。

原一男 こだわりますね。

辺見 僕は『もの食う人々』のなかで、それを日本的な意味体系に置き換えて、わざわざおどろおどろしく書こうとしたりしているんですね。でも現実は違いましたですね。

原 僕の映画でいうと、神戸の料理屋の浜口さん、あの人が奥崎さんの追求や、一緒にいた兄弟たちの追求である程度人肉を食った話をしたわけですよね。それで、いまだにそのシーンを容れるべきだったと思うんですけれど。撮影が終わると、奥崎さんが「隣に料理を用意さしとりますから、みんなで食事でもしましょう」という話になって、追求する側の奥崎さんと兄弟二人、追求される側の人肉を食った浜口さん、それから僕らも含めてみんなで宴会になるんですよ。ビールを注ぎ合って、和気あいあいと乾杯をやっている。これっていったい何なんだと思いながら。しかし、これは絶対とにかく撮影しとかなきゃいけないと思って、僕はカメラを回すわけです。すると僕のカメラに向かってみんながビールを突きだして、「お疲れさまでした」と言っている。これは何とも言えない風景でしたね。

辺見 それは見たかったですね。

原 これはぜひ映画に入れるべきだったと思うんですが、編集マンとの確執で落としちゃったんです。あの時の現場の何とも言えない空気は忘れられないですね。

辺見 ぜひ入れてほしかったですね。おもしろさというのは今まで延々とつづいてきたことの意味を裏切る瞬間ですね。ほんとに、いままでは何だったんだっていう、裏切る瞬間、ポコンと別の意味が顔をのぞかせてくるというか。

原 現場って必ずそういうのがあるんですね。

辺見 行くまでわからないんです。今度の仕事をして、作家的な想像力の射程というものが、ほとんど現実に越えられていると思い知りましたね。ぼくらがあるな、と思うのはもうあるんです。たとえばスカル・ファックとか、淫水を一回に一升もだす女とか、われわれが書斎で、こりゃあ奇妙奇天烈で、大向こうがうなるに違いないと思うようなアイディアはすでに現実に、何百年も何千年も前から世の中に存在している。現実の方がはるかに十分にフィクションをやってると思うな。
昔、横浜で警察担当の記者やってたときの話ですが、飲み屋で働いている男の子が、同棲していた女が妊娠したら殺しちゃったんですよ。そいつは怠け者で、死体の始末をしきらずに、最初は風呂桶に入れておくんですよね。すると水を吸っちゃって、蓋を押し上げるように膨らんじゃう。これは困ったと思って、今度はバラバラにして戸棚やいろんなとこにしまったりする。そこへ田舎から彼女の母親がたずねてくるんです。すると、そこでその男は奇妙な優しさを示すんですね。近所へ行ってヤキトリを買ってきて、冷蔵庫にも女の死体の一部が入っていたらしいんだけど、そこからビールとかだして、お母さんにふるまっている。バラバラ殺人というのは、通常は緻密な犯行で、日本全国いろんなとこに死体を捨てて、警察の捜査をだまくらかすためにやるんですけど、彼の場合は単にめんどうくさいんですよね。だから最後には一カ所にまとめてポンと捨てて、すぐにパクられちゃう。やっていることに整合性がない。現実というのはそういうものなんですね。
風景のシークエンスを整合的に見るのは、物語の間違いだと思います。そうじゃないんだという物語のほうがおもしろい。そういう意味では、『行き行きて、神軍』をエンターテインメントとして見ても、非常におもしろい。それはひとつひとつの風景が、われわれの想定したものを、裏切っているからで、「異化」ということに耐えていける人間にとっては、鉄パイプで頭を殴られるように衝撃的ですよね。しかし危ないというんですが、やべえ仕事だなあと思ったですけどね。

「屈せざる者たち」 辺見庸・原一男

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