天地、覆墜すると雖も、また将らず、これと共に遣ちず

天地、覆墜(ふくつい)すると雖も、また将(かな)らず、これと共に遣(お)ちず

この文句は、同じ内篇の「徳充符篇」の中にある。「荘子」には、儒教の元祖孔子が俳優よろしくひんぱんにでてくる。激しく攻撃を浴びているというより、荘子や道教をほめたたえるという役割をさせられている。荘子は物わかりのよい分別顔の男として登場してくるか、実は馬鹿にされているのである。

この篇には、南郭先生に当る役として、魯の国の王駘(おうたい)という刑によって足をチョン切られた男がでてくる。架空の人物であり、荘子だといってよい。この男、なにか口でとくべついいことを人に教えたりするわけでない。ところが、この男に逢いにいったものは、なにか質問をもっていくわけでもないのに、つまり先入観なしにからっぽ(虚)ででかけるのに、かならずなにかをえて帰ってくる。それをみて不思議に思った孔子の弟子が、そもそもこういう御人はどう考えたらよいのでしょうかと師にきく。孔子は、したり顔で「成人」であると答える。わしの先生にしたいくらいだと、謙虚に言う。荘子は、徹底して孔子を真面目人間に仕立てコケにしているわけである。

さらに孔子は、こうも賛仰する。「天地、覆墜すると雖も」へっちゃらであると。この王駘なるものは、天がでんぐり返り、地が陥没したとしても、ともに穴へ落ちていかずにはいられる人だと、孔子はほめたたえる。

「覆墜」の「覆」は、「天地」の「天」に対応し、「墜」は、「地」に対応する、天がひっくり返るとは、地に落ちてくることだろう。天には、大穴があったわけだ。地が墜ちるとは、とつぜん大陥没したのだろうが、それとも落ちて天になってしまったのか。

いかにそのような天変地異に逢おうとも、王駘は、平気の平左衛門、どこ吹く風だというのだ。つまり、この世の変化・仮りの現象などのにとらわれない人だと、孔子は、ほめたいのである。軽い地震の一揺れでも、びっくりしてしまう人間にとっては、まさに王駘は「聖人」である。だが、具体的に「天地覆墜」の時が襲った時、王駘はどうするのだろう。いくら平気だといっても、足元の大地に穴が開けば、王駘も落下していかなければならぬからだ。それとも、魔術でもって、彼だけ落下を免れるのだろうか。

免れない。王駘もまた墜ちていく。穴に落ちながら、ただ落ちたと思わない。落ちることを落ちていくのである。落ちることそのものになる。落ちるとは、どういうことかなどという分別はないから、恐怖もない。落ちることそのものになるとは、穴そのものになるといってよい。つまり、分別としての穴もなくなってしまう。めでたく無そのものとなる。魔術といえば、これこそ魔術である。このように「からっぽ」になれば、地獄の穴に落ちても助かるかもしれない。

按摩にかかったりすると、気楽にしてくださいとよく言う。これは、素直な人以外には、無理難題だ。こんなことをいうのは、ヘボ按摩である。かえって、からだが、気楽にしようとして固くなる。たいていは、意識人間なのだから、彼の按摩の腕で、相手をそのように仕向けるのが、商売というものである。

しかし気楽になると、つまり穴=無そのものになると、悪い箇所(あるいは良い箇所)がはっきりしてきて、揉むべき箇所も明確になるのは、事実である。南郭先生のところへ、頭をからっぽにして出かけたものが、なにかをえて帰るのは、そういうことだろう。無になることなど、人間には不可能だが、無になる瞬間があるのは、あきらかで、その事実を強調していったのが、荘子でもある。

病気といえば、人は治ることばかり考えるが、荘子は、さらに一歩、考えを進めていて、病気も自然の理とみて、「吾れ、これと友たらん」としている。たとえば健康と病気を分別しない、一緒だと考える。死と生をも一体と見るところからきている発想である。「内篇」の「大宗師篇」にある。

「漠逆の友」という言葉は、みるからに難しそうなのに、「親友」の意味だと、案外みな知っている。なぜか受験勉強に出やすい言葉になっていて、むりやり覚えこむからだが、この出展も『荘子』である。死と生を区別して喜んだり悲しんだりしないものを友としたい、といったところから生れた言葉である。

ことさら不具者を登場させるのは、荘子の弁論におけるテクニックである。この篇には、莫逆の友(4人いる)の一人子輿(しよ)が病気になるエピソードが語られている。陰陽の気乱れて、内臓が頭に来るような大病にかかるが、見舞いに来た莫逆の友に「偉なるかな、かの造物者」とうそぶき、井戸水にわが身を写しとって、「おうおう、造物者め、よくもまあ、俺のからだをこうまでねじまげてしまった」と呟く。それをきいて、「莫逆の友」が、「なんじ、これを悪(にく)むか」といえば、「いな、われ何ぞ悪まん」と答える。左の腕が鶏になってしまうなら、「その鳥が時の声を上げるのをききたいものよ」とまで答える。やせ我慢しているように見えるが、めぐりあわせに従っただけだ。つまり「生死一体」だから悪むはずがないと言いたいのである。

ここで、「天地、覆墜すると雖も、また将らず、これと共に遣ちず」に戻るなら、穴に落ちながら、「穴」そのもの、「落ちる」そのものになれば、分別としての「穴に落ちる」ことも消えて、絶対の無、同工異曲であると、なんとなくわかるだろう。

草森紳一 「『穴』を探る 老荘思想から世界を覗く」

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