国境はなんのためにある?

国境はなんのためにある?
橋本治 「婦人公論」2003年6月

新型肺炎SARSは、相変わらず衰えを見せていない。日本で感染者が出ていないのは奇跡みたいなものだけれども、だとしたら、今の内にさっさと考えるべきことを考えちゃった方がいいんじゃないかと思う。

日本の経済は、かなりの部分で中国に依存している。人件費の安い中国に工場を作って、生産を任せている。工場だけじゃない。農産物だって作らせている。本来は梅干しなんか食べない中国人が、梅干しを作っていたりもするらしい。中国製の冷凍野菜の残留農薬が問題になったこともあるけれど、日本人の野菜の食べ方が、「季節に応じて、その時その時のある物を食べる」から、「一年中同じようなものを食べ続ける」という形に変わってしまって、「単一品種を大量に安定供給する」ということになってしまった結果だろう。畑もまた、工場みたいになっている。

これだけでもう考えなきゃいけないことがいっぱいある。「もっといろんな野菜を食べるようにした方がいいんじゃないか」とか、「食べるということを、会社や工場の他人任せにしないで、もっと自分の身近なところに引きつけた方がいいんじゃないのか」とか、「土地のものを食べるということに、もっと積極的になった方がいいんじゃないのか」とか「全国均一で同じものを食べるというのは、へんじゃないのか」とか。「中国人の人件費が安いから、中国で生産した方が、日本の消費者のメリットになる」ということは、ある時期さんざっぱら言われて、私のようなへそまがりは、「そうか?」と首をひねっていた。「人件費の安い中国で」をそのままにすると、日本は「産業の空洞化」になる。物作りを、人件費の安い外国にまかせていたら、日本は仕事が減少して、「メリットを受ける消費者」の数が減る。外国製品が物価を下げると、同じ物を作っている日本人の生活が成り立たなくなってしまう。つまり、デフレ不況である。そこにSARSがやって来て、「中国での生産」に頼ることが出来なくなったら、どうなるのか?困るところでは、とても困る。

輸入ばかり便りすぎるのは、いいことじゃない。いくら金持ちだがらって、浪費ばかり続けていたら、人の根本がおかしくなる。そんなに金持ちでもないくせに、「物価が安い」ということだけを理由にして浪費ばかり続けていたら、「働く」という意味の根本を見失ってしまう。中国のSARS感染拡大をきっかけにして、「外国に頼らず自国でまかなう」という基本を明確にした方がいいんじゃないかと思う。SARSの猛威は、日本のデフレ不況克服のチャンスでもあると思うんだが。

中国が日本への輸出製品を作っているのは、実は、中国人が考えたことではない。日本人が作らせている。これは、よく考えてみると、とてもおかしい。

昔の日本が「輸出立国」というものを可能にしたのは、外国へ輸出をしたいと思った日本人が、あれこれと考えたからだ。「なにを作るか、どう作るか」をあれこれ考えて、自分から外国へ視察に行ったり、外国人技師を呼んだりして、自分で考えた。決して、外国の企業の人間がやって来て「これをこう作りなさい」と命令したことを、そのままにしたわけではない。「ああだ、こうだ」を自力で考えて、それであっても、「日本製?いらない」とはねつけられて、更に苦労を重ねた。日本がなんとかなったのは、決して、外国人の言いなりに物を作って輸出する、「外国の下請け」になったからじゃない。アジアの国々が「日本を見習いたい」と言うのなら、まずそのことを教えるべきなんじゃないんだろうか?

中国人が「日本人はなにがほしいんだろうか?」を考えて、「ここにある梅の木を使って梅干しを作ろう」と決めて、日本人の口に合うような試行錯誤を重ねて「中国産梅干し」を輸出するならいはいけれど、日本からやって来た人間に、「これこれしかじかの物をこうやって作りなさい」と言われるままにやっているんじゃ、国際的な下請けだ。中国人から物を考える機会を奪ってもいいんだろうか?

国が違えば、文化からなにから全部違う。それを明確にして「国境」がある。お金のためだけでその境界線を曖昧にしてしまうと、とんでもないことになる。SARSが日本に入らなくするために、「交流をストックさせる」は、当然の手段としてある。「国境がある。だから違う」は、やっぱり重要なことだろう。

橋本治『ひろい世界のかたすみで」より

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