別役実「犯罪症候群」 浅間山荘事件①

浅間山荘事件は単なる茶番劇であったが、それ以前のリンチ事件はそうではなかった。そこには「わかりません」一派の人間にとっての、真剣な、そして極めて人間的な、営みがあった。我々は、彼等をしてリンチ事件に至らしめた、すべての事情を極めてよく理解できる。それは、彼等にとって必然的な過程でもあったし、もしかしたら、計画的ですら、あったかもしれない。

私はある雑誌にこういうことを書いたことがある。≪もし文明の彼等に気付くのがもう3か月遅かったら、彼らは一人を残して、もしくは一人も残さずに、すべて消えていただろう≫と・・・・・・。「そして誰もいなくなった」というわけだ。これは悪い冗談だけれども、冗談であるだけに、私をほとんど慄然とさせる。私は何度もこれを口にしてみて、何度も驚くのである。こんなことが行われていい筈がない。しかし、考えれば考えるほど、そうに違いないとしか思えなくなってくる。文明がこのリンチ事件に対して極度の拒絶反応を示したように、彼等もまた、文明に対する極度の拒絶反応によって、この事件を創りあげていったに違いないからである。彼等は彼等の信ずる革命の思想に基づき、妙義山に忽然と消え去るであろう奇跡を忠実になぞっていた。

文明がこれに気付き、彼等を追い立て、「あさま山荘事件」という解釈可能な事件にデッチあげたのは、だから文明の自己防衛であったに違いない。それが茶番劇であり、余りにも悲壮でかつ滑稽なのは、その文明の意図が露骨すぎたせいであろう。もちろん文明の側にまったく手抜かりがなかったとはいえない。それに気付くのが若干遅すぎたのであり、リンチ事件は、未完成でがあったが、既に開始されていたし、完結した円環を目指して、半円までは描いていたからである。ここまでを見れば、誰でもそれを完成させることができる。「そして誰も居なくなった」という解答は、今のところパラドックスでしかありえないが、それは我々の文明に対する未練がそうさせるのである。我々は、文明に対する一抹の未練にもかかわらず、それをそう言いたくてうずうずしているし、文明の側は、それをそう言わせまいとして、ピリピリしているのである。

私は考える。妙義山中にこもった数十人の「わかりません」一派の人間が、その「わからない」事情を持続させる過程で、もしくはそれを凝縮してゆく過程で、一人を殺し、それを埋め、もう一人を殺し、それを埋め、次第に少なくなり、最後に一人になり・・・・・・。その時彼は、もしくは彼女は、自分の穴を自分で掘るだろうか・・・・・・?掘るだろう。そして自らそこに入るだろう。雪が降り、凍え、死に、土くれがくずれて穴を埋め……そして、「誰も居なくなる」。文明は、おそらく長い間、そこでいかなる厳粛な営みが行なわれたか、気付くことはできない。文明は、考古学者が沙漠の真中から一個の石を掘り出し、それによってもう一つの文明を推理するように完成していたら、その事件は、我々のこの文明と対等の、もう一つの文明に違いないからである。

彼等は自ら、革命軍であると言っていた。しかし文明は、ゲバラや毛沢東と比較して、革命軍ですらないと決めつけた。したがって文明は、革命までは許容できるが、彼等は許容できないのである。文明をして、革命を受入れるほどまでに寛大にさせ、しかもなお排除しようとした彼等とは一体なんなのか。もう一つの文明と、仮に名づけるより他にないではないか。

(つづく)


別役実 「犯罪症候群」

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