戦争と殉死①

●三島由紀夫作品にみる戦争と自殺

赤誠隊。

市井に気を吐く政治団体の名でもなければ、浅草あたりにたむろする、やたら“自由”な不良少年の名でもない。

昭和14年、大陸での戦火の拡大と連動する形で始められた、南洋諸島の海軍飛行基地建設にかり出された囚人の集団。それがこう名付けられていた。

この赤誠隊に加わっていた二人の男が、建設現場だったテニアン島で、すさまじい自殺をやってのけた。

仮に名を松村和夫、佐々木次郎としておこう。

昭和15年4月、内地では陸軍志願兵令が公布され、水、みそ、醤油、マッチ、木炭、砂糖など10品目に切符制が採用され、ドイツではナチス親衛隊司令官ハインリヒ・ヒムラーがアウシュヴィッツ強制収容所の建設を命じたのがちょうどこのころだったが、松村と佐々木は同月14日、担当の看守に、帰還する職員の名を出して「荷づくりを手伝うよう言われましたので」と申し出、許可されて外出した。

内地の監獄ではありえないことだが、こんな洋上の島から脱走を計る人間もいないだろうという思い込みや、受刑者を私用に使うという“便利な”慣行もきっと生じていたのだろう。二人は難なく市街地へ出て、そのまま姿をくらました。

約二時間後、看守たちは二人が脱走したことに気付いた、というよりそれを認めざるをえなくなった。大あわてで追跡班が編成され、捜索が始まった。が、結局その日は空しく島のあちこちを駆けまわるだけで終った。

翌15日の朝、島を東西に走る道路わきにある家屋に忍び込んで食糧を盗み、出てきたところを発見された二人は、踵を返して裏のサツマイモ畑へ逃げた。ゆるやかな丘陵を緑に彩って広がる畑を頂上の方へ、二人は必死で走り続けたものの、追跡陣との距離は次第に縮まった。50メートル、30メートル、そして後20メートルほどで追いつかれそうになったところで、後を走っていた松村が立ち止まり、右手に何か棒状のものをかざす素振りで振り返った。

工事現場からいつの間にか持ち出したダイナマイトだった。

ダイナマイトはただちに点火され、導火線が白っぽい煙を吐き出し始めた。

「佐々木!佐々木!ここだ。戻れ、ここだ」

松村は鋭く叫んで、先を走る佐々木を呼び止めた。佐々木は身を翻し、二人は抱き合ってその場にしゃがみこんだ。

反射的に後ずさりする追跡陣。そして、ほどなく轟音。

思わず身を伏せ、震えながら起き上がった看守の一人が、ふと後が気になって振り向くと、首が二つ、イモの葉の上に転がっていた。

約五年後には、そこから原子爆弾を搭載した爆撃機エノラゲイが広島上空へ向けて発進することになるテニアン飛行基地の建設現場で、松村は木工上の大工として、佐々木は土工として働かされていたのだが、かねがね二人は口を揃えたように「同じところで仕事したい」と同居者にもらしていた。

現地から法務省に提出された報告書には、

「或ハ既二船中ヨリ情交関係アリタルニ非ズヤト想像セラレル定マラズ」

という文言が見える。

様相は凄惨だが、熱帯の青空に瞬時に溶け込んだような印象でもある二人の死の翌年、日本は太平洋戦争に突入。この間、自殺は全体としては減少の一途をたどった。

ちなみに、昭和に入ってから日中戦争開始の年12年まで、全国の自殺死亡率はずっと20%の大台に乗ったままだった。その間、昭和7.8年がそれぞれ22.2%、11年が同じく22.0%と、グラフにすると二つのピークを描く形になっている。

それが12年には20.2%、13年には17.2%と、顕著な減少の兆しを示し、以後、

14年 15.2%
15年 13.7%
16年 13.6%
17年 13.0%
18年 12.1%

と推移している(19、20年は統計が撮られておらず、不明)。

「その晩郊外の家へ落着いて私は生れてはじめて本気になって自殺を考えた。考えているうちに大そう億劫になって来て、それを滑稽なことだと思い返した。私には敗北の趣味が先天的に欠けていた。その上まるで豊かな秋の収穫(とりいれ)のように、私のぐるりにある夥しい死、戦災死、殉職、戦病死、戦死、病死のどの一群かに、私の名が予定されていない筈はないと思われた。死刑囚は自殺をしない。どう考えても自殺には似合わしからぬ季節であった。
私は何ものかが私を殺してくれるのを待っていた。ところがそれは、何ものかが私を生かしてくれるのを待っているのと同じことなのである」

三島由紀夫の代表作のひとつ「仮面の告白」の一節、ここに、戦時に自殺の少ない理由が、この上ない説得力をもって問わず語りされている。三島はまた別のところで「あれだけ私が自分というものを負担に感じてなかった時間は他にない」(『私の遍歴時代』)、「戦争はわれわれ少年にとって(中略)人生の意味から遮断された隔離病舎のようなものであった」(『金閣寺』)と、戦時の自分について述べているが、この言葉も自ら「理由」の暗示になっている。

死がある決定的な相をもって前述に用意されている。しかも集団的な形で。となると、生の現実の側には、「どうせ死ぬのだから」という放恣な心情と、「(義務としての)死を恐れず、それに向けて生を鼓舞せねばならぬ」という倫理的な態度の両極端が生じるだろう。いや、この両方が分かちがたく融けあって、平和な時にはありえないような非日常的な気分を醸成するのが、一国の戦時というやつなのだろうが、いずれにしても、そうした状態、状況が人々の日常から自殺のモチーフを稀薄化させることについて、これ以上言葉を費やす必要もあるまい。

「戦争が終わった。工場で終戦の勅使の朗読を聞くあいだ、私が思っていたのは、他ならぬ金閣のことである。
寺へかえると怱々(そうそう)、私が金閣の前へ急いだのはふしぎではない。参観路の砂利は真夏の光に灼け、私の運動靴の粗悪なゴム裏は、石のひとつひとつに粘ついた。
終戦の勅使を聴いてから、東京なら宮城前へ行くところであろうが、誰もいない京都御所前へ泣きに行ったものが大勢いる。京都には、こういう時に泣きに行くための神社仏閣がたくさんある。どこもその日は繁昌したにちがいない。しかしさすがに金閣寺へ来る者はいなかった。(中略)
敗戦の衝撃、民族的悲哀などというものから、金閣は超絶していた。もしくは超絶を装っていた」(『金閣寺』)

なるほど、金閣寺へは誰もあの際「泣き」になど行かなかっただろうなどと、妙に納得させられる。その理由を探せばいくらでも見つかりそうな気もしてくる。戦前の公認歴史観の上で何かと評判の悪かった足利氏ゆかりの寺であること、「金」のイメージつながりで一般には物見遊山にふさわしい場所と思われていただろうこと、「ぜいたくは敵だ」とかいわれて頑張った末の敗戦であるのに、この寺は紛れもなく権力者の「贅沢」の産物であること、民族の神話体系とは切れた地点に突っ立った人工物である等々。だがこの個所で、三島は金閣に何か別のことを象徴させようとした気配が、その一点説話調になった文体そのものに感じられる。

前方に設定されているはずだったのに、結局自分には「やって来なかった」死。で、これからは、これといった手だても見つからないまま、こちらから追い求めるしかない死。

それが、この個所の金閣にオーバーラップさせられようとしているように思える。

(つづく)

朝倉喬司「自殺の思想」

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