宗教の事件 76 橋本治「宗教なんかこわくない!」

日本では“対立”が起こらなくて“排除”が起こる。そして日本では、必ず、「思想的に似たような人たちの間だけで“対立”が起こる。表面は穏やかで、しかしその内部では激しい対立がある。“派閥”とか“内ゲバ”があって、それが絶対に外には漏れないようになっている。“対立”というのは、その対立を成り立たせるための“共通の地盤”というのが必要だから、日本では同じ土俵に上がれるような人間の間でしか、対立は起こらないのだ。“違う人間の思想”なんか分からないから、日本の論争は“すれ違い”が“仲間内のもの”にしかならない。日本人は、対立するかわりに仲間はずれにする。そこで、“自分の頭でものを考えない大人”と“自分の頭でものを考えようとする子供”の間にある“隠された対立”が問題になる。
大人は、「自分の頭で考えたければ、自分の頭で考えればいい」という。がしかし、そういう大人は、自分の頭でものを考えたことがないのだから(そういう必要がなかったのだから)、「自分の頭でものを考えたい」と思う子どもに、「自分の頭でものを考えるということはこういうことだ」と教えることができない。そのかわりに、「そんなことはおまえの自由だ」という。それは、「そういうヘンなことを選択したいのならすればいい。それはおまえの自由だ」ということとおんなじで、そんな言い方をされれば、「あらかじめ“ヘンなもの”という色がつけられた選択肢を選ぶ」ということにしかならない。だから、子供が「自分の頭でものを考える」という選択肢を選んでしまうと、「世の中に背を向けて、わざわざヘンなものを選んでしまったやつ」ということになって、公然たるというか隠然たるというか(どっちにしろ日本では同じことだが)、放逐の対象にしかならない。そういう構造が、実は日本の近代という時代の中に、幾層にも重なって存在している。幾層にも重なって存在していた大人と子供の間のギャップは、いつか“対立”となり、いつかの間にか“成り立たない対立”となり、さらには「当人の自由なんだから知らない」という、“対立の解消”になる。

この「“対立”が成長して、やがては“対立の解消”へと進む」というのは、なんだか逆のような気がするが、しかし逆ではない。

日本では、その近代のはじめにおいて、子供は親の所有物であった。“親”は、“家”というものを構成するために存在していて“子”はその家を継ぐために存在していた。子供は親の後継者で、子がまだ“後継者候補”である段階では、子は親に従わなければならない・・・・・・これが前近代の社会システムで、日本の近代はこの上にのっかっている。だから、親が健在の間に子供が“自己”を主張すると、「まだ一人前でもないくせに生意気だ」ということになって、“対立”が生まれる。子は“子供”のまま自己主張できないのだから、それが自己主張をしてしまえば、その瞬間から“大人”の扱いをされる。つまり、「子供のくせに分不相応な“大人”を主張するとは生意気だ」になって、“大人”としての戦いを挑まれる。それ以前に、対立の土俵は“大人の側”にしかなかったから、自己を主張した子供は、“大人”としての扱いを受けてたたかわされるしかなかったのだ。

だからどういうことになるのかというと、「日本の近代における青年達の“主張”というものがどれほど若く未熟なものだったかという見当がなされないまま、“近代は壁にぶつかった”と言われるということになる。日本近代の思想も文学も主義運動も、実はとっても未熟なもんでしかないのだが、「それを主張する以上、扱いは“大人”ということになっていたのだから、可哀想に、同じ土俵の上でしか子供の“背伸び”は、見えなくなっているのだ。

対立は、同じ土俵の上でしか成り立たない。だから、日本の“大人”があいまいになれば、この土俵の存在もあいまいになる。かつては「分不相応にも一人前を主張する」という形で嫌悪されたものが、いつの間にか「そう主張するのも自由だから……」というなしくずしの譲歩に変わる。日本の大人の物分かりが良くなったのではなくて、かつては明確だった“日本の大人”というものの輪郭が曖昧になっただけだ。だから、もう日本の子供は、大人と対立させてもらえない。だから、対立は隠されたままで、成りたたない。

成り立たなければ成り立たないでも良いのだ。それは。「なんだ、誰にも邪魔されないで、自分の頭でものを考えて、自分の生きていく世の中を作って行けばいいのだ」ということになるのだから。がしかし、どうもそういう具合には、すんなりと行かない。

すんなりと行かない理由には、「子どもの方に、“そうか、さっさと成長していけばいいのか”という発想がなかなか生まれない」というのと、「大人の方に“こっちを置いていかないでくれ”というさもしさがある」というのの二つがあるからなんだが、とりあえず今のところは、そんなことはどうでもいい。問題は、「やはり今でも、大人と子供の間に、“隠された対立”がある」ということだ。もしかしたらこれは、“ますますある”かもしれない。

大人は子供に対して「勝手に自分の頭でものを考えろ」という。「もうこっちにはがお前のことなんかわからないんだからお前はお前の自由にすればいい」という。「そのかわり、こっちに迷惑かけるなよ」とつけたして。

さて、そういうことを大人から言われて、それで素直に「うん」と喜べる子供がどれだけいるだろうか?多くの子供は、こういわれりゃ、ブーっと膨れる。なんで膨れるのかといえば、それは子供が、「なんて愛情のない言い方なんだ」と思うからだ。

ここから“大人と子供の対立”に“愛情”という厄介な要素がからんでくる。

宗教には“愛情”という要素を欠かすことはできない。オウム真理教事件は“宗教の事件”で、これは当然“大人と子どもの対立に関する事件”でもあるのだが、不思議なことに“愛情”という要素が語られることがあまりに少ない。これが語られるときは、必ず“事件の背後のセックス=いかがわしい教団の性の乱れ”ということになってしまう。“愛情”に近いところでは「なんでこんなことになったんだろう?……みんな“教育”が悪いんだ」論がある。これは「人に迷惑をかけるなんてシツケがなってない」とおんなじことで、当然のことながら、問題にされる“教育”から“愛情”という要素は抜け落ちている。なにしろこれは、「犬を買うんだったらつないで飼え!なんで国はそのことを飼い主に徹底させないんだ!」と同じ論だからである。相手は人間の子供だっていうのにさ。

そして当然のことながら、「今の教育には愛情がたりないんだ」という言い方をする人間は、愛情に飢えているはずの子供から、かえって逆に“毛嫌い”なんかされてしまったりする。「なぜか?」は後のことで、今のところの結論はこうだ……。
《“愛情に関するギャップ”という重大な問題が隠されているからこそ、議論は不毛になってややこしくなる。》


(つづく)


橋本治 「宗教なんかこわくない!」

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