何枚かの紙片に目を通してみたが

最近の何日間かに埋めた何枚かの紙片に目を通してみたが、いつも同じ懸念を覚える。わたしの描写は回りくどく、正確さにも欠けるのではないか。真実とは耐えうるものなのか、新手の嘘を吐くきっかけにすぎないのではないか。自分では分からない書き落としがあるのではないか。しばしは、要約することで本質的なことを飛ばしてしまうのではないか。もっと悪いことには、ときおり自分の記憶はもはや本質的なことを考えることができないのではないか、という気持ちになることだった。思い浮かべることすらできないのだから、言葉ではなおさらできない。出来事の脈絡はぼやけてしまう。植物のこと、消化される食べ物や飲み物のことを憶えているなんて、なんと余計なことだろうか。――たまたま訪れた街角、真珠の宝冠、冥府のものとも思われるような文字や碑文を憶えているなんて。――だがしかし、それらのものがつかの間の作用を引き起こし、意図せずにわたしの知覚に印象を与え、わたしには明かされることのない深層へ埋葬される。それはつねに影の住む洞窟の壁を照らすたったひとつの光線なのだ。――それは本質的なことがふたたび甦る手助けをしてくれる。顧みられることのないものたちの残響であり、味であり、においであり、鮮明に刻みつける尺度ではないだろうか。ああ、それは現実のたった一人の証人なのかもしれない。これらの協力者がいなかったり、姿を現さないところで、見えないものや失われたものの荒野が始まるのではないだろうか、過ぎていった時間のなかにあいた穴が、ゆっくりと進行する本当の死が始まるのではないだろうか?宇宙のあらゆる時計の振り子の運動をもはや共有することのない虚空が始まるのではないだろうか?

ハンス・ヘニー・ヤーン「岸辺なき流れ上巻p468

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