ディスコミュニケーション

わたしは戦後数年たった時期に「二人の哲学者」という論文を書いたことがある。ここでわたしはデューイと菅季治という無名の日本の哲学者を対比した。菅は招集されて満州にいて終戦を迎え、ソ連の収容所に抑留されて、収容所の通訳をした。そこで日本共産党書記長・徳田球一のある発言を通訳したのだが、その発言が戦後国会で問題となり、菅は参考人として呼び出された。ポイントは徳田がある「発言」をしたかどうかにあるのだが、菅はどこまでも「自分がなにを聞いて通訳したかは証言できるが、その内容が真実であるかいなかは知らない」と証言し続けた。しかし、議員たちは彼に、その内容についての解釈や意見を求め続け、それによって徳田が「要請」をしたことを証明しようと追及する。彼は通訳であって、「私はソ連に要請があったかなかったかということはそれはわからないのであります」と答えるしかない。しかし議員たちは「ソ連将校は、こういう期待、要請があればこそ、こういうことを言われたのだ感じて、あなたは訳されたのでしょう」と事実として答えようのないことを質問し続ける。

わたしはここに、日本人のコミュニケーションの習慣として、上に立つものが自分の利益に合わせてコミュニケーションの舵をとることができる「傾斜的コミュニケーション」とでもいう形式があることを指摘した。ここには議員対菅のはっきりとした力関係が存在する(ハーバーマスのいう「権力的要求」と似ているかもしれない)。しかし私がさらに問題にしたかったのは、菅がこの証言のあとに記した次の文章だ。「あの事件で、わたしはどんな政治的立場にもかかわらないで、ただ事実を事実として明らかにしようとした。しかし、政治のほうでは私のそんないき方を許さない。わたしは、ただ一つの事実さえ守り得ぬ自分の弱さ、愚かさに絶望して死ぬ。」

菅はこの証言の翌日、岩波文庫の『ソクラテスの弁明』をポケットに入れて鉄道自殺する。それはもちろん政治家たちの「コミュニケーション的行為」(ハーバーマス的にいえば)を理解しない質問に原因があるだろう。しかし、もうひとつの原因は、菅が持っていた「完全なるコミュニケーションに対する夢」なのではないだろうか。事実を事実として伝えるという状態に自分は達しうると考えて、彼は闘った。それができなかったとき、彼は絶望して死を選ぶことになった。

私は、彼の生活を支え、最終的に選ばせた信念を「完全なるコミュニケーションの神話」と呼びたいと思う。彼は軍隊のなかでインテリとしての自分と庶民出身の兵士たちのディスコミュニケーションを、通訳としてロシア人対日本人のコミュニケーションを、帰国してから市民的自我対家族のディスコミュニケーションを、そして国会で思想的な人間としての自分と政治的な人間としての議員たちのディスコミュニケーションを経験した。それは彼が自らに課したコミュニケーションの規範に達することにができないとして、彼が自分を苛む原因となった。その規範は、「コミュニケーションは、その過程において内容を色づけたりしないように、完全に透明でなければならぬ」というものだ。

しかしコミュニケーションは二者の間に成立するもので、それが完全であるためには、その両端を担う人々のすべてが完全で訓練をしていなければならない。いくら自分が完全なコミュニケーションに向かって訓練していても、受け手がそうでなければ「完全なるコミュニケーション」は達成できない。菅は青春をかけて「完全なるコミュニケーション」の彫像に固執し、これに近づこうと努力した。そしてこの理想が達成できないという思想的破産を経験し、自殺せざるをえなかった。これはデューイは(そしておそらくはハーバーマスも)重なる。デューイの哲学は「完全なるコミュニケーションの神話」を掲げる「ユートピアニズム」であり、「コミュニケーションを祝福し、ディスコミュニケーションを悪としてのろい、軽んじ、やがて無視した」からである。

「ディスコミュニケーション」をつねに悪とするデューイは、ディスコミュニケーションを除去する可能性についてきわめてのんきに楽天的に考えており、理性的説得の方法に、主にたよることを主張している。しかし、人を説得するとき「理性的説得」は現実に適用してみると壁にぶつかる場合が多く、彼の願望は「願望にとどまる」といわざるをえない。これは菅のユートピアニズムも、ハーバーマスのユートビアニズムも同じことだと私は思う。

私はむしろこう考える。「ディスコミュニケーションは、決して、いつも悪いものとして考えるべきではない。ディスコミュニケーション(あるいはコミュニケーションのない状態)は、しばしば思索の跳躍を助ける。科学においても、芸術においても、その最前線に立つ仕事は、通信可能物の領域をひろげて行くと同時に、それに呼応してもやもやと心の中にわき自己じしんにしか通用せぬ信頼の私的記号をふやすことによって、通信不能物の領域をひろげて行く。これら二つの領域のあいだのダイナミックな相互作用が、人間の思索におけるもっとも重要なきっかけをつくるのである。」ディスコミュニケーションが人間の歴史で果たす役割は、デューイが考えるよりはるかに大きい。階級間、民族間、国家間など人間が二人以上いるところには必ずディスコミュニケーションが存在する。「人間にとっての根本的状態は、コミュニケーションである以上にディスコミュニケーションである」

デューイはこのディスコミュニケーションを乗り越えるために、学問・芸術上のコミュニケーションというユートピアを持ち出す。しかし「これを一つのユートピアニズムとして自覚できぬ所に、デューイの弱さがある」。このユートピアニズムが菅にも、ハーバーマスにも(そしてきみのような「インテリ」にも)共通するのではないかと思う。現実には存在しない「理解深い知性と豊かな感受性を持つ人びと)を想定して、「完全なるコミュニケーション」を期待し、それが得られないと「絶望する」。しかし、この世界に当然あるディスコミュニケーションに対して、私たちはもっと強くなくてはならないのではないか。コミュニケーションの皮に隠れたディスコミュニケーションをはっきりと見つめ、この質と量を計算しておかなければならないのではないか。ディスコミュニケーションは人間の逃がれられない状況であって、民主化が進もうと革命を起こそうと亡くならない。私たちができることは、ディスコミュニケーションのなかにあって、有害で努力次第でなくせる部分を選びとって、それを少しずつ埋めることだ。それがデューイにできるだろうか。ハーバーマスに、そして君にできるだろうか・・・・・・。

奥村隆 「反コミュニケーション」

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