なんだか意気が上がる

森敦
僕は若い友達あたりにいろいろ言うんですけれども、とにかく考えるだけ考えなさい、もう時間が亡くなるまで考えなさい。それで絶体絶命断末魔になったとき、本当は原稿用紙でもいけない、便箋かなんかの裏にムチャクチャなスピードで、ムチャクチャな字で書きなさいということを言う。これは、小島さんのことから教えられたんですよ。
だけども、漢字をきれいに書くことによって、それから発想していく人もありますね。谷崎潤一郎に「麒麟」という小説がありますね。麒麟という字は字画が多くて、いかにも重々しいから、そういう人だってもちろんあるんです。なにから発想してきたって、それは勝手なんですから。だけども、そういう発想の仕方をできるだけはするまいと思うんですよ。小島さんは、それをみずからにも課しているんじゃないですかね。

小島信夫
つまりそういうときに意気上がるわけですよね。このごろ意気上がることだけをめどにしているものだから。いよいよそういうふうになりつつあって。

森 本当は僕が行ったような単純なものじゃなくて、人間がせっぱ詰って、とにかく断末魔で書くと、絶体絶命で書くというようなことになるというと、これは申し上げたかもわからんけれども、そこで動いてくるのが阿頼耶識というんですね。だから人間が、これは問答しておってもなんでもいいんですけれども、窮地に陥ってきて、ある本能的な行動をしなければならぬ。判断をしなければならぬ。待ったなしということになると、いわゆる阿頼耶識というものが出て来る。僕の友達の塙英夫、「背教徒」という長編小説をかつて筑摩書房から出したひと、これが僕が酒田にいたとき、小島さんは阿頼耶識ともいうべきもので書いておるといった手紙をくれた。あれにはかなわんなというようなことも書いてあった。

僕は長く奈良の瑜伽山というところにいたから思いだすんですが、法相の瑜伽、すなわちヨガの境地に入るにも、阿頼耶識というところから出発させている。その法相というものが後に、いわゆる東密、台密という、弘法大師と最澄とによって代表される密教になり、禅宗になる。禅も阿頼耶識から出ているんです。そうすると彼らは、端然と座っておるだけで、なんでもないようだけれども、これはやっぱり阿頼耶識というものに到達して、非常に低い言葉でいうと、実力以上の実力を発揮する方法、自分以上の自分を発揮する方法、それが考えられなければならぬとしているんです。

だから、いつでもそんなことをいわれたって無理だというようなことをいうけれども。出来損ないか出来損ないでないかは、それは人のいうことで、まさに小島信夫は小島信夫以上のことをいったときに、出来損なっていてもなんだか意気が上がる。よく小島さんは衛生にいいということを言うけれども、そういう瞬間が訪れたときに、あるいは乗り切ったときに、その衛生にいいという言葉が出てくるんじゃないかと思うんですよ。

小島 漠然とそういうことは話したこともあるんですけれども、いままことによくわかりますわ。今日はお話聞いて非常によかったです。

小島信夫・森敦 「文学と人生」

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