現代の幸福

河合隼雄
そうすると豊かな時代における仏教、あるいは豊かな時代における仏教的幸福とかいうことになったら、どうなりますかね。これ、われわれは考えなきゃいかんのやけど。

中沢新一
日本人が何となく仏教で安心感を得ている根を探っていくと、仏教が日本のなかで展開した「日本仏教」に辿りつくと思います。この「日本仏教」と言われているのはいったいどういうものかといったら、中国やインドから非常に高度な思想が入ってきたわけですが、高度な学問として追及される時代が長くつづきました。でも、それでは日本仏教として根づきません。だいいち庶民はそんなものには期待しません。

それが鎌倉時代あたりになって、ようやく日本人のものの考え方と溶け合うようになる。このとき起こった事態を考えてみると、何千年あまり変わっていない日本人の根本的な世界観に、仏教の思想が寄り添っていったときに、初めて日本人が納得する仏教になったと言えます。

一番の典型は、浄土真宗じゃないでしょうか。御仏にたいして御恩をいつも感じている、報恩の感覚ですね。「私たちがこうしているときも、御仏は私たちを見守って、いろんなものを与えてくれている。この御恩を感じ取れなければならない」という感覚ですね。仏様が自分を包み込んで見つめて、生きている。自分はこの大きい力に生かされていることに感謝しなければいけないという考え方を、浄土真宗は強力に発達させています。この考え方は、根本的に「贈与論」的な思考です。与えられたものにはお返ししなければならない、という。しかもその根は、きわめて深い。

河合 ええ、アニミズムです。

中沢 アニミズム的贈与論の考え方がある。日本仏教というのは何かと言ったら、何千年、何万年来のアニミズム的な考え方と仏教の哲理が合体した時に、ようやく日本人が納得するものができた。それなんですね。そしてそういう仏教の考え方を取ると、安心が得られるんですね。

だから日本の仏教の本質を、ぼくは「縄文時代の仏教」と呼んでいるのですよ。つまり、縄文時代に形成された思考法がそのまま生かされて、しかも高度な表現にまで発達して、だから「日本仏教」というのは、すでに縄文時代にもあった、という考えです。

河合 なるほど、そう言ったらとてもよくわかります。

中沢 日本の仏教というのはそのようにして展開してきた。その想像力が江戸時代には止まってしまいます。日本仏教はすっかり展開力を失って、そこから明治に入るわけですね。明治に今度はキリスト教とか西欧合理主義とか、個人主義とか資本主義とか功利主義とかいろんな思想が入ってきたときに、仏教はすでに新しい状況に創造的にできる力を失ってしまっていたのかもしれません。

河合 それはね、僕は仏教が保護されすぎたからだと思うんです。なにも宗教的活動をする必要がなくなったのですよ。

中沢 そうですね。

河合 つまり、宗門改めをやりだして檀家制度ができたでしょう。だから本来的な宗教活動なんてしなくても、みんな食えるわけです。これはいちばん堕落しやすい。

中沢 一部の例外を除いては、まったく弾圧もされませんし。

河合 「安心」は大切ですが、宗教にとって「安楽」は危険なのですね。

中沢 むしろそういう意味で日本人の創造的な宗教を弾圧された金光教とか天理教とか大本教とかで、それのベースになっているにはアニミズムです。

河合 そう言っていいと思います。

中沢 神話的思考でもある。

河合 しかももっと驚くべきなのは天理教の中山みきにしろ、大本教の出口ナオにしろそういう体験者が出てきたということでしょう。それらの記録を見ると、こんな近い時代にこのようなことが実際に生じたのだと感動しますね。

中沢 そうなんです。

河合 世界的に見て。珍しいですよね。

中沢 珍しいです。たぶんあれは日本に『古事記』『日本書紀』があって、新石器的な神話の原型というものが残っていて、自分が直観していることを神話の原型にのっとって語ることができたからでしょう。ヨーロッパではそれがむずかしかったと思います。新しい宗教運動も起こってきたけれど、キリスト教の粋を大きく踏み出すものではなかったですね。

ところが中山みきにしても、出口ナオにしても、みんな神話のパターンを創造的に利用できています。明治時代のあの日本人が直面していた精神的な危機の時代に、アニミズムの土台の上に想像がおこなわれ、ついに昭和に入って芹沢光治良の文学みたいなものまで生まれるわけじゃないですか。それが日本人にとっての宗教性再生の重要なパターンですね。

だからいま仏教はどこに立脚しなきゃいけないかというと、やはり創造的なアニミズムなんじゃないかと思います。一神教の神様と言ったってたかだか三千数百年の歴史しかないもので、そういう神が死んだという話は本当のことですから、これから人類は一神教の神様以前に自分たちは何を考えていたのか、もう一度思い出してみる必要があります。吉本隆明風に言えば、思想の「アフリカ的段階」を再検討しなくちゃいけません。同じことが、日本の仏教にも必要です。仏教の「アフリカ的段階」、僕に言わせると「仏教のお縄文(新石器)的要素」の発掘が、いよいよ必要となってきたなあ、と感じます。

仏教というのはとても大事だな思うのは、仏教はいつも土着のままぐずぐずしている思想に、体系化のためのお手本を与えてくれたということです。天理教や大本教にしても体系化の原型を作っているのは仏教なんじゃないでしょうか。それからその元をつくっている中世神道って神仏習合ですから、あれだって真言宗とか天台宗の体型をもとにして、自分が抱えている古い思想を体系化することができたものです。

直観力とか感覚的な問題に関しては、神道というのは非常にすぐれた思想的な力を持っている。それに仏教の体系性を合わせて、日本人はそのつど、そのつど新しい状況に適応して、限界をつき抜けていく思想をつくってきました。いまの危機の時代に仏教に何ができるかと言ったら、そうやってまだこの文化のなかに潜在的なまま眠っているものに、表現を与えていく創造をおこなう以外にありません。キリスト教の西欧を知った上で試みられる、新しいかたちの神仏習合と言いますか、エコロジカル仏教と言いますか。

河合 そうですね。西欧の経済システムや幸福感の上辺だけはキリスト教抜きで取り入れたわけですから。

河合 隼雄・中沢 新一「仏教が好き! 」

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