被害者遺族も求めている「個別性」

藤井誠二
「個別性」みたいなものは、被害者の方も加害者の方も、なるべく細かく、死刑とか、殺人とか、被害っていう抽象概念からなるべく社会を遠ざけるような、そういうところにいかないようにするっていうのはとても大切だと思う。それはやっぱりメディアの仕事であるし。
一個一個ってすごく大事なことだと思うんです。『論座』(2008年3月号」)に廃止論者の森千香子さん(南山大学講師・当時)が、死刑存置をいうとき、死の一個一個の実感がないということを書いておられます。死刑とは抽象概念ではなく、一人ひとり個別の死の経験であることを示し、死刑が具体的かつ主観的なものとして書かれるべきだと。「昨今の死刑の議論にみられる、死を抽象的なものとして見る軽さみたいなものは、被害者遺族の感情への容易な統一化をあおるような言説にも感じる。具体的な死のイメージなしに死刑を叫ぶことは、他人を自分と同じように命のある人間として共感できず、簡単に人を殺す犯罪者と奇妙に似通っている」という趣旨のこともお書きになっています。
死刑はたしかに不可視のシステムなので、こういう面はあると思う。この死の実感という意味では、逆に被害者遺族、殺された当事者の死も一個一個違う。そこも大事です。
遺族がよく言うのは、死刑も確かに抽象的な概念だけど、被害者遺族も中傷的に捉えられているということ。感情的にいつも怒っていて、加害者の死刑を望んでいるというようなステレオタイプ。でも、そういうイメージだけが独り歩きすると、個別の事件の残虐性などを忘れがちになってしまうと。
だから被害者の個別性、遺族からすると、いかにめちゃくちゃなことをされたかということを忘れがちだというふうに言っています。確かにそれはそうで、その師の個別性みたいなものについては、この人が言ってることと同じことが言えると思う。それも大事なこと。
たとえば強姦されて、ビニール袋を頭に被せられて、ガムテープで留められて、上からハンマーで何度も何度も殴られて殺されたいうようなディテールです。そのとき被害者はどう命乞いをしたかとか。
事件の個別性については、被害についてもなるべく細かく伝えることが必要。「殺人」という抽象的概念に陥ってしまわないようにすることがメディアの仕事でもある。

森達也
今の藤井さんの論理は、死刑の個別の具体性を模しだすのであれば、被害者が「いかに残虐に殺されたか」も、リアルに伝えるべきだってことですか。

藤井 両方同じように。要するに抽象的な概念、死刑vs被害者みたいな。両方とも確かに言葉を通していくと、「加害者はひどいな」ぐらい、「死刑、それは当然だな」ぐらいの感じじゃないですか。そういうものではなくて。
判断材料はあった方がいい。死刑という行為の「残虐」性を出すのであれば、個別の犯罪の情報を知る必要があります。たとえば宮崎勤という人間が死刑にされた。どのような状況で死刑にされたのか。一方でその宮崎勤によって、余人の女の子が殺され、骨を食べられた。そういうのも詳細に出す。そして被害者遺族の思いも抽象的に伝えるのではなく、できるだけ個別的に伝え、社会は知る必要があります。殺されたのは「少女A」ではなくて、いつどこで生まれて、どんな人生を歩んできたのか、誰誰というふうに考えてほしいという遺族は少なくないのです。

森 そんな遺族について藤井さんもいくつかの著作に書いているけれど、あらためて確認したいのです。つまり遺族の方に、抽象化してほしくないという希望があるわけですね?

藤井 あります。それはよく聞く。

森 でも逆に、もうさらしたくない。さらされたくないという気持ちもきっとあるでしょう。

藤井 もちろんそういう人もいるだろうし、そういうことでいえば死刑だって、死刑囚の遺族の中にも出してほしくないという人もいるでしょう。

森 被害者遺族がいつも怒っているかのようなステレオタイプに描かれると藤井さんは言ったけれど、極刑を望まない被害者遺族は、被害者遺族らしくないという理由で、なかなかメディアに出てこないという構造にもつながりますね。ほんとうはたくさんいるのに。
死刑制度があるからこそ、個別の具体的な死をもっとイメージしなきゃいけないという定義ならば、もし死刑制度がなくなったら、被告の凄まじさを伝える意味はどうなりますか。

藤井 死刑があろうがなかろうが、事件の個別性や、当事者の思いの個別性は具体的にぼくは表に出すべきだと思う。

森 死を抽象化しちゃいけないということ?

藤井 そうです。殺された側であろうが、殺した側であろうが、死刑によって殺される側であろうが。

森 そうであれば同意できます。ただ同時に、ちょっと気になっているのは、日本の報道における事件報道の多さです。別に外国が基準というわけじゃないけれど、日本の報道は突出しています。
妻が保険金目当てに夫を殺したとします。その妻にどういう男性遍歴があったかとか、卒業アルバムにはどのように映っているかとか、どうやって殺したんだとか。これらの細かい情景を伝えることの社会的公益性を教えてくれと、アメリカのジャーナリストに問われたことがあります。答えられなかった。別に僕がそんな報道をしたわけではないのだけど。
 
藤井 それはでも報道の社会性とか、社会的公益性みたいなものと大きくつながっていく問題で、ケース・バイ・ケースですが、殺された側としては実際に被害者の身に起きてしまったことを正確に伝えてほしい、という声をよく聞きます。

森 ケース・バイ・ケースであることは当然です。その総量の多さを問題にしているつもりなのだけど。
被害者遺族は、家族が殺されたり凌辱されたりしたその詳細を、もっと伝えてくれという気持ちを持っているということですか。藤井さんの本にもそんな被害者の思いは描写されていたけれど、やっぱりとても不思議です。それを望まない遺族のほうが大多数のような気がしていたから。

藤井 むしろ逆の人は多いというのがぼくの実感です。たとえば加害者が死姦している事件などではメディアが遠慮してそこを書いてしまったりする。遺族にあたってみると、辛いがきちんと伝えてほしいとおっしゃる。

森 うーむ。ならばそこは、僕も軌道修正を図らねばならない。でももう少し教えてほしい。悲惨な状況を伝えてくれとの遺族の願いは、他人を死刑にしてほしいとの願いがあるからですか。

藤井 いや、違う、違う。事実を知ってほしいから。たとえばある事件の加害者に死刑判決が出て、それを世論が賛成しても反対しても、「本当にどんな酷いことをされたかわかっているんでしょうか?」と不安に感じる遺族は多い。だからこそ事件のディテールは全部出してほしい、と。

森 もちろんすべてではないですよね。

藤井 それは百人百様ですし、僕が取材してきた、主に被害者が死亡する事件の遺族の中でのことです。、遺品の展示会などに、遺体写真や病院で亡くなる寸前の被害者の写真――顔面が腫れ上がり、チューブでつながれた――を掲示される方もおられますよ。メディアに出される方もいる。それを拒む方もいます。

森 もちろん遺族によって違いがあると思うけれど、もっと克明に殺された様子を描写してくれという遺族が少ないというのは、僕はちょっとびっくりしました。

藤井 繰りかえしますがケース・バイ・ケースです。忘れがたいから、考えたくないから報道をしてほしくない被害者もいます。だけど、事件の風化と抽象化、被害者のパターン化を被害者はおそれます。被害者の取材をはじめて10年ほどになりますが、「殺された側」の思いはほんとうにさまざまです。死刑制度には賛成でも、自分の家族を殺した加害者には死刑を適用しないでほしいという方もおられるのです。すさまじい逡巡がある。
ただ、特に性的な部分に関しては、やっぱりそれを伝えてほしくない。死刑にしてほしいけど、死刑にするためには強姦って出た方がいいに決まってるんだけど、出してほしくないという人もいる。言いたくないという人もいる。

森 ケース・バイ・ケースならば当たり前です。ならばそれほど驚きません。メディアや社会の側が気にしたり抑制したりするのは、遺族をこれ以上傷つけるのではないかとの配慮です。

藤井 遺族とメディアは気にしますね。

森 そういう意味でいうと、遺族の方とか被害者、当事者の方が先に進んでいる感じ。それはそういうふうに出してほしいということも含めて、さっきの刑罰の問題でいうと、ものすごく勉強されていて、いまやっぱり情報が多いというか、被害者の団体が多く設立されたから、そこでものすごく勉強されて記者がついて行けなくなっているほうが多いですね。

森達也・藤井誠二「死刑のある国ニッポン」

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