電話をめぐって

●「もしもし」の緊急性

「もしもし」という電話で使う固有の言葉は、ある意味で鋭く、電話空間の基本的な特質を象徴している。

普通のひとびととが出会うときに、「こんにちは」とか「はじめまして」という。知り合いであれ初対面であれ、「もしもし」とは決して言わないだろう。目の前にいる話し相手にあえて「もしもし」というとすれば、それは「距離」をことさらに強調した、意地の悪いからかいか、ある種の信頼関係のもとでのジョーク以外のなにものでもない。話芸の用語でいえば、「ツッコミ」である。状況がわかっていない仲間に対して、意味が通じていない遠さをからかい、ともに笑いあうには効果的だが、かなりひねった意外性のある使い方となる。

「もしもし」という表現は、つまり、いささか特殊な距離の感覚に縁取られている。民俗学者柳田国男は、この呼びかけの言葉に、ある種の空間的な「遠さ」と、時間的な「気忙(きぜわ)しさ」が保たれていることを見逃さなかった。

「もしもし」ということば自体が、電話以前の日本語のなかに、なかったわけではない。「もしもし」は、「いう」の謙譲語「もうす(申す)」に由来する。普通の生活のゆっくりした状況では「もうし」の一言が呼びかけとして使われた、という。そう声をかけられれば人はふりかえり、また「どうれ(「誰)の変化ともいう)」と応え、いったい何を「申そう」としているのか、それをまず聞いてみようと近寄ってきた。

わざわざ短く切りつめ、「もしもし」と重ねて使う風が起こったのは、もう少し差し迫った予想外の状況においてである。

柳田が実例として挙げたのは、交番の前と、忙しい店先である。交番の警官は、不信を感じれば通行するものを突然でも呼び止める。明治に生まれた羅卒すなわち巡査の多くが「オイオイ」「オイコラ」といって、権力の高みから通りかかりの人を呼びつけるところを、威張らずに礼儀正しくふるまう者だけが見かけない通行人に「もしもし」と話しかけた。そして商店では、たとえばうっかり持ち物などを忘れて、そこを去ろうと行きかけた客に対して、気づいた店の者が急いで呼び戻す。そんなときなどに、この「もしもし」が使われたと述べている。

要するに「もしもし」は、そこからすぐにいなくなってしまいそうな相手への呼びかけである。だから緊急性が刻印されている。差し迫った状況において、しかし名前を知らない他者に、その場で声をかける。そのままであれば、相手がいなくなってしまうかもしれない偶然性と距離感とをともなう。それゆえ、「もしもし」には「遠さ」と「気忙しさ」が刻みこまれている。

●声だけを頼りに探るという緊張

このことばに刻み込まれた特質は、電話空間における人と人との対面関係が「他者のバーチャルで突然に立ちあらわれ」であることと深く関係している。もし呼び止めなければ、次の瞬間には切られて、存在しなくなってしまうかもしれない。だから、お互いに急いで声をかける。

ここで使った「バーチャル」という形容詞も、やはり「現実でない」「架空の」「仮想の」とのみとらえるのは不十分だろう。確かに現実空間での対面関係と異なっているのだが、その違いに作用している固有の条件がある。第一に複製の音声だけで交流が編成されていて、第二に対話に資格の参加が禁じられている。この二つの具体的な、メディア論であると同時に、身体論的な限定条件がかかわっている。その意味するところを、電話というメディアの「バーチャル」の考察において、ていねいにたどってみなければならない。

電話をかける、それは、いかなる手順によって生みだされた、どのような経験であったか。図に掲げておいたのは(図は省略)戦後の電話の大衆化を支えた「四号電話機」とその後継続の「600形」である。いま40代以上の多のく人が、かつての電話として思い起こすのは、これらのダイヤル式の「黒電話」であろう。この電話機で電話をかける手順にも、すでに説明が必要かもしれない。今日の作法にもつながる基本ではあるので、わかっているひとには当たり前の知識の確認だが、簡単に復習しておく。

まず受信機(正確には送受信器)をとる。置いてあるフックが、回線のスイッチになっているので、受話器を上げればよい。

「ツー」という発信音を確かめて、相手先の番号を回す。

見ての通り、ダイヤル式だから「回す」という。数字と対応している穴に手をかけて、ダイヤル盤を回転させる。後にプッシュホンが出てきてはじめて、番号を「押す」という表現が混じってくることになる。

有効な番号であれば、呼び出し音が向こうでなっているのが聞こえはじめる。相手が受話器を取ると呼び出し音が止まり、回線がつながる。

あわてて、「もしもし」と声をかける。

もちろん相手が出るのは予測しており、期待もしている。しかし、どういったタイミングで、誰が出るのかはわからない。

そして出れば、すぐにこちらから呼びかけなければならない。そのまま黙っていたら、その瞬間から無言電話の迷惑電話になってしまう。電話でのコミュニケーションには、声によって存在を確認しあう「共時性」「同時性」「、あるいは「即時性」の暗黙の強制がある。

このプロセスにおいて、相手が見えないことは、それぞれの態度に大きな影響を与えている。現実の空間をあいだにはさんだ対面状況よりも、相互に見えない分だけ不安であり、頼りない。そもそも、存在することそれ自体が見えない。だまって頷いたとしても、そのままでは意味をもたない。つねに存在の心もとなさがつきまとう。それは相手の存在だけではない。そのまま反転して、自分の存在が了解されているかどうかの不安となる。自分も、そして相手も、声だけが頼りである。

この「見えない」対話空間の「不安」は、社会生活における新しい状況であった。相互に見通せないことによる「不自然さ」や「心もとなさ」など、それまでの普通の人間のコミュニケーション状況にはなかったからである。それゆえ、人びとは特別の緊張を強いられた。作家の佐藤愛子は次のように告白する、

***電話というものを私はあまり好きではない。よほど親しい友達でもない限り、顔の見えない相手と話をするのは、何となく不安定で落ち着かない。ことに頼みことがいやだ。人手のないとき、八百屋や魚屋に電話で用を頼むのさえ、何度か思い迷ったあげく、ついに自分で出かけるかそうでなかったら我慢してしまう。***

電話のおしゃべりやケータイの便利に慣れきった世代からすれば、この1967年に40代半ばであった人物の感想は、理解できないほど古風な躊躇のようにみえるかもしれない。しかし、決して根拠のない逡巡でも頑迷でも無かった。むしろ誰もが感じたためらいであった、と考えるのが正しい。電話での声としての言葉には、多くの人びとにとって、対面状況における声としての言葉と異なるものだったのである。

大正生まれのこの作家が電話の利用をためらう違和感の根拠は、「一次的な声」のもっていた力能の差異である。現実空間における声としてのことばは、その基本において、身体的で皮膚的であり、視覚と複合的で、空間も補完的であった。つまりこの作家の逡巡は、複合的な身体感覚から切り離された「二次的な声」であるゆえの、不安定さや落ち着かなさに基づく。同じ書物のなかで、すでに60代であった人物が告白する「あがる」という自己診断も、その不安定さの一表現である。

***電話をかけねばならぬハメに陥ると、胸のうちがつらくなり、相手の人が立派な人物であったり、美しい才女であったりすると、電話をかけぬうちから、何とはなしに緊張し、いよいよ通話がはじまると、向こう側からみられるはずがないのに頭をさげたり、笑顔で三度も四度もうなずいたり、恐縮してハァハァと答えるうちに、面倒な仕事もツイ引き受けてしまう。要するに僕は電話をかけると、あがってしまいがちだったのだ。(森山啓)

なるほど「あがる」とは、いかなる関係の下での現象か、見られていることに緊張して自然に振る舞えない、他人の存在を意識して固まってしまう状況を意味する。それは大勢の人びとから注目されたり、未知の故に向かってこちらから話しかけなければならなかったり、つまり行為しなければならない関係の、強いられた一方向性ゆえの落ち着かなさであった。

●耳だけの不安と不信

しかも、である。電話が強いる緊張は、話し手の側だけの落ち着かなさではなかった。

相手を巻き込んだ耳の緊張であり、双方に共有された不安でもあった。

朗読・対談に活躍した徳川夢声に「放送話術と電話話術」という面白いエッセイがあって、『東京の電話』に採録されている。そのなかで、純粋に聴覚だけのコミュニケーションとなった二次的な声の質の問題を、印象深くえぐりだしている。

夢声は、放送話術の専門家ではあるが、「電話の話術家としては落第生」だと自認していた。「あなたと電話で話すのは、実にビクビクさせられます」と怖がられていたからである。本人としてはいささか心外であったけれども、そう思われてしまう理由も、わからないではなかった。すなわち、自分がことばの使いかたにうるさかったからではないか。夢声は、そう考えた。「活弁」といわれた夢声時代の画面の説明からラジオ時代の朗読まで、「舞台話術屋」「放送屋」「原稿書き」と「コトバの家業」に一貫して従事してきたからである。

***電話の相手の言葉を聞いていると、それに神経が集中されるから、その言葉の使いかたがいちいち気になる。たとえば、相手が二つの意味にとれる言葉で言うと、それはいったいどっちの意味だと、すぐに質問する。間違った言葉遣いをされると、すぐにそれを正したくなる。なるほど相手はやりきれない。***

とはいうものの、私が思うに、専門家としての口うるささや、言葉の職業者としてのこだわりだけが原因ではないだろう。会話内容だけではなく、電話というメディアがつくりだす状況の特質も複合的に作用している。夢声自身が「それに神経が集中されるから」と、電話空間という場の特殊性を耳の立場から明確にしている点は鋭いと思う。

思い出してほしい。電話によるコミュニケーションには二つの特徴があった。

第一に声だけで対話がなされ、第二に視覚の参与が禁じられている。つまり双方の感覚は、耳に集中せざるをえない。そのことで、声の調子やことば使いの持つ意味が、対面状況での会話以上に増幅される。

●突然に呼びかけられるということ

更に、この空間に特有のもうひとつの要素もここに関わっている。

会話相手の突然の出現の唐突さである。ローカルな現実空間の状況のコンテクスト(文脈)と無関係の異なる時間が、まったく突然に押しつけられる。

じっさい、電話は常に唐突な訪問客であった。「もしもし」と突然に話しかけられる。受け手の側からすれば、電話での会話の要請はいつも予想外の時点から始まる。つまり予期できない突然の要素をふくんでいる。

何人かの作家もまた『でんわ文化論』で、夢声と同じく、かけられた側の戸惑いを述べている。

***風呂に入っているとき、電話がかかってくると、寒いのをこらえて、裸で応対しなければならないのである。男性ならその旨をいって、早めに片付けてもらうことにしているが、婦人の場合はいくら実物が見えないからといって、あらわには言いにくい。(木山捷平)***

***ちょうど夕食のときなどに電話がかかってくる。電話が茶の間にあるものだから、私は箸をもったまま受話器を耳にあてると、それが知らない人からの身の上の相談だったりする。対手はわたしが箸を持っているとは知らないし、身の上相談というような差し迫った気持ちだから、そのまま話しだして、こちらはつい、あとでとも言えなくなる。(佐多稲子)***

たしかに電話の呼び出し音は、都合おかまいなしに侵入してくる。こっちになんの用意も心構えもないときに、呼びたてられる。原稿を書いている最中に、突然かかってくる。便所に入っていれば、あわてて出ねばならない。客とおもしろく話しこんでいるときには、話を中断される。家族がそろって「いただきます」といったとたんに、電話がかかってくれば、誰かが箸を置いて出なければならなくなる。

向こうはこちらの事情を知らない。だから、頭からそれを咎めようとするような文句は言えない。

しかも、番号表示の実現以前では、その電話をとるまで、相手が何者であるかすらまったく分からず、相手の表示機能が充実したあとでも、どんな急用を抱えているのかは、こちらに事前にはわからない。

突然で用件もわからない場合がほとんどであるから、いきおい夢声のいう「中っ腹」の不機嫌、すなわちどこかで闖入の理不尽さへの怒りをふくみ、文句を言ってもしかたがない唐突さにむかつく心を抑えながら、受話器をとることになりがちだ。

***だから、私が電話に出るとき、喜んで出ることなど滅多になく、だいたいは疑惑を抱いて出るとか、中っ腹ででるわけだ。そこで、こちらの言葉もそれを反映して、疑惑的だったり中っ腹だったりすることになる。するとまた相手も、電話であるだけに、こっちの応対ぶりがすぐにピント響くというわけだ。なにしろ耳だけに神経を集めている。***

佐藤健二「ケータイ化する日本語」

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