オリジナルとコピー

明治時代から始まってしまうというデータのなじみのなさを別にすれば、あの対談の中で最も読者にわかりにくい部分は、“ごく最近になって分母分子が三重がさね、あるいは五重の塔のようになってしまったあとで、それが横だおしになってしまった・・・”というところじゃないかと思う。まあ、分母分子ってものは、積み重ねていくという絵柄として見れば確かに横だおしにはしうるんだ。しうるんだけどね、分母分子そのものは実際に横だおしにしたところで全く意味がないわけですね。だから、それがいったいどういうことなのか・・・読んだ人たちは、あるいはぼくら2人の口調にだまされちゃったかもしれないけど。実は意味不明なんじゃないか、と思うんだよね。

その辺をぼくなりに説明してみるとね、何かの影響をうけて、あるいは何かをベースにして自分自身を作っていく、と。これが何10年となく続いてきた日本のポップスの歴史だったわけでしょ。それがここにきて崩れはじめた、と。ひとつの拡散現象というか、あるいは逆転現象みたいなものが起こってしまった。つまり、いったい何がオリジナルなのか、何がその人の音楽のルーツなのか、非常に見えにくくなってしまったわけなんだよね。

たとえば、ある特定の人の音楽の原点はここにあると分析してみても、実際にその人はその原点となるべき音楽をまったく知らなかったり、ということ。それはさっき言った“何重がさねにもなっている”ってのに通じるんだけれども、誰かの影響でこういう音楽を始めた、と。でも、誰かはまた別の誰かの影響を受けてて・・・というようなことなわけ。間接的にグズグズにかさなってきてるわけでしょ。それも一人の人間の影響の上ではなくって、あの対談の中でも何人か例をあげたけど、一人の人間が全然タイプの違う3つぐらいのものをベースとして自分の音楽を作っていたり、ね。

と、実はその時点で、すでにルーツ探しは無意味になっていると思うんだよ。横だおしになっているってことは、つまりもう分母も分子もないってことでしょ。そうするとその時点で、たとえばこの音楽のルーツは何であるかを探すこと自体が無意味になってるし、たとえ探しあててみたところで、それはけっして音楽そのもののルーツ探しじゃなくてね、わりあい枝葉末節的な分析でしかないし・・・あるいは、逆に、ありとあらゆるものが今や影響を与えうるんだってことの証明にしかならない、と。まあ、そういうことだろうと思うわけ。

じゃ、なぜそういう事態が生じてきたのか。これはまさにね、今やニューメディア時代といわれつつあるけれども、そこに至るマス・メディアの浸透が原因というか・・・。つまり、コピーというものはオリジナルがあってはじめて成立しうるわけでしょ。オリジナルなくしてコピーはありえない、と。にもかかわらず、今やその両者の関係が・・・というか、コピーに対するオリジナルの存在がどんどんあやしくなってきている。たとえば、さっきも言ったように、ある人が誰かをオリジナルとして自分の音楽を作っていく。と、オリジナルそのものが実は別の何かのコピーであるというね、そういうことが繰り返され、浸透していくにしたがって、オリジナルってものがどっかへ消えてしまうんだよね。すべてが何かのコピーである、という・・・。

それを象徴するような事態は身の回りにいくらでもあるでしょ。たとえばわれわれが手に入れている大量生産の製品。そこにはオリジナルってのはないわけ。買った一点一点がオリジナルと言えば言えるし。にもかかわらず、同じ型番の製品はどこの店に行っても置いてある。と。コピーが氾濫しているわけ。

じゃ、コピーに対するかつてのオリジナルにあたる物は何か、というと、それはただのモデルなんだよね。あるモデルのコピーとしてたくさんの製品ができている。そのモデルというのは、ひとつの抽象的な設計図であったり、あるいは概念であったりするわけだから、結局、そんなものは存在しないわけですよ、物としてはね。したがってオリジナルは存在しないと。

さらに説明を加えればね、ちょうど映画の時代からテレビの時代へと移行したときに似ているんだ。映像の世界において、映画というものはあくまでもフィッシュであって、フィルムがオリジナルなわけ。けれども、じゃテレビの場合、放送局がオン・エアするビデオ・テープがオリジナルかっていうと、そういうことはない。結局、それぞれの家庭一軒一軒のブラウン管に送りつけられる映像そのものがオリジナルと言えばオリジナルなわけでね。まさにコピーしか存在しない段階なわけでしょ。

そういうことの反映として、あるいは共通の世界的な現象として、音楽の世界でも“オリジナル対コピー”というような言い方ができにくくなってきているわけだ。

ただし、大量生産される製品の場合、一定の型番のついているコピーってものはほとんど同じ体裁、同じ機能を持っているけれども、これが音楽の場合は少々事情が違ってくる。音楽をコピーするってのは人間的作業であるし、同一パターンのコピーが出てくるわけがないのであってね。コピーをとる段階、つまりマネをして、あるいは影響されて何かを作っていく段階で様々なノイズがまぎれこむ。それを個性と四でもいいのだけれども、まあ、したがってひとつひとつ出てくるものがすべて見た目には違った体裁を持ってくるわけでしょ。そのことで、ますますオリジナルかコピーかが見分けにくくなってきた。で、最終的に、それを見分けるためにはたぶん非常に厳密な博識が必要とされるのね。ソレがオリジナルかコピーかをつきとめるためにはありとあらゆるタイプのものを知ってなくちゃいけないわけだから。

だから、たとえばあるミュージシャンがね。誰もしらないようなめだたない曲かなにかをオリジナルに使って、そのコピーを取ったと。すると、誰もそのオリジナルを知らないからね。そうやってできあがったコピーのほうをオリジナルだと思い違えてしまう、と。けれども、思い違えてしまうから、それはサギだ、と。そういうふうには言えない時代が来てるってことなんだ。それは今までの話でわかると思うけれど。

と、そういうことは、当然、音楽の内容そのものにまで及んじゃうわけでね。音楽の中で言っていること、あるいは音楽として何か訴えたいこと自体も、オリジナルだ、コピーだ、と言えなくなってしまうんだね・・・。

「大瀧詠一Writing&Talking」 1984年7月1日 新譜ジャーナル別冊「ゴーゴーナイアガラ」(自由国民社) 「分母分子論」対談の後に・・・・・・ 相倉久人

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?