沖縄仮面

中沢新一
分析の材料を、もっと話します。これには二つのきっかけがあるような気がしています。一つは子どものときに読んだ漫画の『西遊記』です。そのなかで孫悟空がいろんな失敗をしでかして、そのたびに観音様が出てきて叱るでしょう。この観音様が女性に描いてあるんですね。豊かな胸が描いてあるんです。それで僕は観音さまって女なんだ、と思い込んでいました。

そうじゃないことは知るようになっていましたが、それでも潜在イメージの影響はずっとつづいていて、初めてチベット人の世界に行って、「苦行中の観世音菩薩」という壁画を見たときに、腰が抜けるほどびっくりしました。そこには苦行でぎすぎすに痩せて、もう男そのもの、みたいな観音様がいるんです。腰のところに布が垂れているんですけども、男性器が見えるぐらい生々しい絵でした。これこれ、と思いました。この苦行の観音様にあの女性の観音様を合体させたところに、自分の理想とする観音様はいるって、思ったんです。四谷シモンのお人形のような、その男の観音様を見てぐっときている僕は、潜在的なゲイでもある、と感じました。

もう一つぼくの体験というのは、学生時代に沖縄の仮面の研究をして、八重山で、豊作祈願の祭りの二日目に行われる「赤マタ黒マタ」の仮面の儀礼を見ました。これは男だけの秘密結社のやるお祭りです。女性は入らない。もともと沖縄はユタとかノロとか、女性の宗教じゃないですか。言ってみれば女性が支配している世界です。日常生活だって、男はたいした役を果たしていない。そういう世界で秘密結社つくって男だけの世界をつくって、特別なお祭りをするんです。結社のなかには厳格な戒律があります。

この男だけの結社のなかに、赤マタ黒マタという神様がでてくるのです。全身を植物で覆い仮面をかぶった神様が、森の奥から出てきます。森の奥から出てくるこの神様は一体なにだろうというのが、僕の研究でした。

いろんな神話がそれについて語られていますが、ぼくがいちばん感動した神話は、赤マタ黒マタの神様は子どもなんだという神話でした。あるとき子どもが山へ入ってしまって、行方不明になった。行方不明のまま幾日も経って、村の人はみんな死んだと思ってお葬式をしたけれど、母親だけが「あの子は絶対に死んでいない」と言い張った。それで来る日も来る日もその子の帰りを待ちつづけている。

そうするとある夜、息子が出てくる。ちょうど家と山との間ぐらいの中腹のところに息子がひょいと出てくる。そして母親に語りかけます。「お母さん、私はもう人間ではなくなりました」「でも、お母さんに会いたいからこうやって出てきます」といって、また消えていく。そういうことが何年もつづいたということです。

村人もどうもその子が出てきているという話を聞いて気がついたんですけど、その子が出てくる年は豊作なんだけど、出てこないと凶作になる。これは困ったことだ。毎年豊作にしたいものだ」。そこで仮面を使って儀式をやれば、毎年、毎年、豊作になるだろうと、以来、このお祭りがおこなわれるようになって、男たちのつくる結社にだけこの仮面がでてくる。そうしたら、あのお母さんの前には、二度と子供はあらわれなくなったという話なんです。これは島ではとても生々しく語られています。「あの石がそうだ。あの石のところに子どもがあらわれたんだ」とか、じつに生々しく現実のように語るわけです。

これを見ていると、つまり、男性秘密結社のなかに出てくる神様というのは、母親と子どもがいわばドッキングした母子一体の存在で、男はそれを仮面に変えちゃって、自分たちのものにしちゃったわけでしょう。ここに沖縄文化のなかにひそむ、一つの飛躍があるなと、感じました。つまり自然な段階では、これはユタとかノロを媒介とする女性の自然な宗教でしたが、ここにこれを否定する飛躍的なものが出てきて、こういうお祭りをつくっているんじゃないか、男たちがある面では、生身の自然な女性たちを否定して象徴にしようとしています。

河合 隼雄
原理としての母性が大事なのですね。

中沢 女性が持っているパワーを男が独占しようとしているという面もあって、二つの面があります。

河合 そこが面白いところで、日本でもそういうところがあるんだけど、女性原理を男どもは独占しようと男社会をつくるんです。

中沢 そこなんですよ。

河合 だから女性原理でありながら、女はなにか考慮の外に置かれたり、非常に地位が低くなったりします。で、男どもは威張っている。

中沢 これが不思議です。

河合 ええ。そこでよけいみんな混乱するんだけど、だから「日本という国は女性を無視している」とか「女性を蔑視している」というけど‥‥‥。

中沢 違うんですね。

河合 違うんですよ。キリスト教文化とまるっきり逆になっている。

中沢 逆になっていますね。

河合 そこのところがわからないと。

中沢 男尊女卑の典型は鹿児島でしょう。鹿児島はとにかく男が威張っていたわけですけど。「おなごはひっこんどれえ」みたいなことを言っちゃって。でもあんなの嘘っぱちだって、すぐわかる。鹿児島の社会を現実に支えてるのは、おなごじゃけん。

河合 そうです。

中沢 男はいったん家のなかへ入ったら、ぜんぜん頭上っていないでしょう。

河合 だから威張るぐらいしかすることのないんです。

中沢 そういうところでどういうお祭りがおこなれているかというのを見ると、鹿児島でも男が結社つくってますね。男が祭りの中心になる。そのお祭りの神様は何かというと、これが稚児で、きれいな少年を選んで、女装させる。この稚児を神様にして、若者組のニセどんたちがこの子供を肩にかついだり、あるいは愛玩用にしたりして大事にする。倒錯した女性性を所有しようとしています。

河合 そうですね。だから本当に焼きもちを焼かれないように、女性を入れないんですよ。

中沢 西郷隆盛の西南の役は、男同士の熱い愛で結ばれた男の結社がやったと考えられないこともない。それを嫉妬したのがふられた大久保利通で。

河合 はい。はい。

中沢 ですから日本の男尊女卑というのを、キリスト教社会の男性原理による女性原理の抑圧みたいに理解すると、間違ってしまうことになります。

河合 そう考えると、本質がぜんぜんわからなくなる。

中沢 ところがわりあいフェミストの人たちは、そういうありもしないことを言いたがる傾向があります。

河合 それは簡単でわかりやすいから。しかし、実情とはまったくずれている。

中沢 先ほどの話に戻せば、人間の世界には昔から、具体的な母性を否定して、母性の先にある母性というのか、かたちを持たない母性といいますか、女性性といいますか、それに到達しようとする志向があって、しかもそれを「自然教」のなかでやっているときは、どうも男の権威独占と結びつきやすい。

仏教というのはそれを権威独占に結びつけないで、一つの哲学体系のようなものに持っていこうとしているんじゃないかしら。僕は赤マタ黒マタのお祭りのなかに、仏教の原型を見たんだと思います。現実の女性を否定して、結社のなかでは厳しい戒律を守っていながら、結局、何を求めているといったら、これが女性なんです。

河合 だから男性的観音様と女性的観音様と両方出てくるわけです。

中沢 そうなんですね。

河合 どっちが出てくるかによって違うんでしょう。

中沢 母を否定する観音様は徹底した苦行僧として。

河合 そう、そう。それで肯定された女性を描こうとしたら、こんどは観音様が・・・・・・。

中沢 胸のあるような。

河合 ええ。だから後期でしょう。女性的観音様がでてくるのは、日本へ来てからでしょう。

中沢 仏教の本質とは、ですから極端なパラドックスだと思います。ですけども、人間が「自然教」から飛躍しようと生みだした解決法とは、いちばん高度だったと僕は考えています。一神教の解決法では、女性を抑圧してしまいますからね。仏教はそれよりも人間の自然にフィットしています。一神教は女性は抑圧した上で、商品社会という女性イメージ的な世界を発達させました。この抑圧形態が、いまグローバル資本主義として、アジアの全域を支配しようとしています。「アジアよ、覚醒せよ」ですね。それには、仏教とは何かを考えてみるのが、いちばんの早道だと思います。つまり、やっぱり問題は「婦人問題」だということです。

河合 そのときに覚醒した仏教と資本主義との関係はどうなるんですかね。

中沢 これはいままで誰も考えたことのない問題なんです。

河合 そうでしょう。だからそのへんをちゃんと考えていかないと、まさにグローバリゼーションですから。

中沢 そうなんですね。これを考えていくことだけがたぶん21世紀の・・・・・・。

河合 われわれの課題でしょうね。

中沢 はい。いまのところはグローバリズムの拡大や増殖原理を放置するというやり方に対して、ほとんど手も足も出ない状態です。ひとりイスラム教の原理主義の人たちだけが、それに異を唱えていますが、彼らの考えていることが21世紀の解決法になるとは思えない。そういうものとは、オールタナティヴに違う解決法がある、ということを、ぼくたちが示して見せなけりゃいけない。

河合 そう。考えなきゃいかん。しかしね、そういう認識もまだ日本ではないぐらいですね。

中沢 ない思うんですね。

河合 みんなが何かを言うてるパターンは、遅まきながら西洋パターンの真似してちょこちょこ言っておる人が多いわけです。

中沢 仏教はすでに紀元前500年ごろに、この問題についてオールタナティヴな解決法をつくっていたと思うんですけど、21世紀はこれを資本主義の増殖問題の解決法として、もう一回ブッダが取り組んだ問題に取り組まなきゃいけないんです。

河合 それで僕流に言うと、そこに個人主義ということが入ってくるんです。

中沢 そうですね。

河合 個人主義を仏教の中にどう位置づけるかという課題も生じてきます。

中沢 集団原理に対する個人主義の問題ね。

河合 ええ、そうそう。

中沢 神道をベースにした「自然教」の彼らの世界のなかへも、資本主義は最も重要な要素として流れ込んでいる。この資本主義が、一神教と増殖原理が結合したものだということを、もっとはっきり認識する必要があると思います。そうしないと、グローバリゼーションに対抗するのに東洋の多神教をもってくればいい、とかいう発想になってしまって、これではだめなんです。

河合 うん、僕もそう思う。

中沢 これに対抗するには、一神教的思考方法を、ぼくたちが積極的に取り入れる必要がある。しかも、仏教がやったみたいなやり方で、女性性を破壊しない一神教といいますか、そういうやり方で対処していく必要がある。

河合 単純な多神教というのは現代の欧米の文明を見てもわかるように、一神教の強さに圧倒されるだけです。

中沢 そうですね。どんなに文化が美しくても、これはやられちゃいますね。

河合 やられるだけなんですよ。

中沢 アメリカ先住民のたどった道は美しく悲しいけども、われわれはそれを辿っちゃいけないでしょう。

河合 僕は絶対それはやりたくないんですよ。

中沢 とにかく一神教と増殖原理を組み込んだものを徹底的に見ていかなきゃいけない。同時に仏教がこの問題についてまったくオールタナティヴな解決法を、つくり出そうとしたことを、見ていかなくちゃ。
「婦人問題」について仏教がもたらしたオールタナティヴな解決法と同じ原理を持ったものを、グローバル資本主義へ持ち込んでみるというやり方ですね。だから、21世紀のキーワードは「仏教」だって言ったでしょ、ということですね。

河合 僕の場合はとくに個人主義との関係とか、自由主義との関係とかでみている場合が多い。大体似たような線に来ると思いますが、そういう研究は絶対要りますね。

中沢 ええ、西洋の個人主義というのは、先生はどういう根源から。

河合 僕の考えでは、個人主義というのはキリスト教から生まれてきたものです。神と人とを明確に区別する。「区別」の重視、それに唯一の自我を支える唯一の神という構図です。その個人主義はやはり男性原理が圧倒的に優位でしょう。女性原理はどうしていいかわからない。そうすると、女の人たちもそれに乗るとすると、フェミストじゃないですけど、「私たちも男と同じよ」ということしか言えない。ところが女性原理、母性原理というのは、ぼくはとっても面白いと思うし、大事でしょう。だからそれを持ちながらなおかつ個人であり得るというのはどうなっていくか。これは言いかえると、個人主義と仏教の折り合いをつけるということにもなりますが。

中沢 その一つのモデルは漁師なんじゃないかしら。漁師は完全な個人主義ですね。

河合 大体、狩猟には個人主義というのがあり得る。

中沢 たしかに集団で行動はしますけれども、最後は個人です。しかも徹底した個人。

河合 個人じゃないとだめですね。

中沢 徹底した個人の意識を持って集団に参画するということがないとできない。

河合 そう、そう。

中沢 動物と渡り合うときも、まったくの個人として向かい合っています。これは個人主義の極致です。しかも個人になるために戒律を重視するわけでしょう。そして、そこで触れているものは何かと言ったら母性や女性なんです。狩猟文化は、本当に偉大なんですよ。

河合 そこに大切なヒントがあるようですね。

河合 隼雄・中沢 新一「仏教が好き! 」

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