戦争を裁くルール④

竹田 橋爪さんの「日本国家に責任があるが、天皇にはない」という考えをもう少し端的に話してくれますか。

橋爪 いま加藤さんが提示されたかたちにそって簡潔に言ってみますと、戦前の憲法のもとで、何回も言ってるように、天皇に戦争責任はない。
政治的責任については、天皇は本来政治的な存在ではなく、政治的に行動すべき立場になかったのだから、政治的責任は生じようがない。たまたま政治的に行動せざるをえない局面のなかでは、昭和天皇はベストの選択をしている。そういうふうに考える。かりに彼に政治的な責任があるとすれば、それは国家機関を構成するほかの人びと(本来政治的に行動すべき人びと)にくらべてもっとも少ない。それは私に言わせれば、責任がない、というのを同じだと思う。

それから、道義的な責任ということに関しては、個人が個人に問うことだから、私にはなんとも言えない。天皇の同義的責任をどうしても追及するんだという個人がいた場合、私がそれをやめろと口をはさむつもりはない。けれど私は、天皇に道義的な責任があるという世論形成を、団体としての日本国民がやることには反対です。これは当事者としての責任でやっていることにはなりませんから。
形而上学的責任については、私にはよく判らないが、昭和天皇は生涯を通じて、そうした実存的な問いと向き合っていた人物だという気がする。彼の寡黙は、私にはそう映る。

加藤 僕が言うのも同義的責任への世論形成ということではありません。国民の天皇に対するこの道義的な疑問を自分からは解かずに昭和天皇は死去した。残された戦後の国民には、この問題にどのような決着をつけるか、という課題が残された。それは天皇を道義的に告発する世論形成などでは解決できません。昭和天皇のこの道義的な責任についても、他の責任と同様、過不足のない判定を下す作業を行い、もう完全に昭和天皇というスケープゴートなしで、国民が対外的な責任をとり、また、戦争の死者との関係を再構成するための一契機と鍛え上げること、それがこの課題に答えることです。具体的にはこの道義的責任は、戦後の憲法に対する天皇の忠誠義務という政治的責任に転化されるはずだと思う。橋爪さんは、道義的な責任についてはなんとも言えない、そのことを問題にするのに反対、という考えのようだけど、僕はこの道義的な疑問が、こういう展開に向けての糸口だと思ってる。

竹田 その道義的な責任については微妙かつ大事な問題なので、少しあとでやる事にして、いまはもう少し「責任」の問題の基本線を話しましょう。橋爪さんにもう一度お聞きしたいのですが、「日本国に戦争責任がある」というのはどういう観点からなのかな。

橋爪 端的に言えば、戦争を起こすことができるのは国だけですから、国に責任があるし、国にしかないわけですけど、そのことを言うまえに話を少し戻してもいいですか。

竹田 どうぞ。

橋爪 さっき軍隊の話をしましたが、それは古代や中世の歴史的な軍隊の話で、これはたいへんに具合が悪いものである。そこで、たぶんフランス革命がきっかけになってると思いますが、市民社会というものができ、市民が税金を払うと同時に兵役の出兵の義務を負い、国民軍というものをつくって、国民国家を守るために軍隊を利用するというスタイルができています。それまで軍隊は、絶対君主であり主権者である国王のもので、国王の傭兵であった時間が長かったわけですが、国民の利益を守るための軍隊になった。軍隊が市民を守る義務は、この時点で生じてきたと思う。

加藤 そうですね。

橋爪 そこでヨーロッパでは、国民国家がいくつも対立するという状態になり。国際法も徐々に勤怠的なかたちに整備されはじめる。国際法は、はじめ慣習法で、絶対王政の時代にもありました。たとえば、軍人は軍服を着て民間人とはっきり識別できるようにしなさいとか、中立を宣言してそれを守っている場合は攻撃をしてはいけないとか、そういう国際慣習ができあがっていた。19世紀の末から20世紀になって、さらに戦争をより細かく規定するための戦時国際法が発達した。たとえば、ダムダム弾のような非人道的な武器を使わないという規定など。それから一番重要なことのひとつとして、捕虜にたいするあつかいがあります。捕虜であると認められた場合は、拷問などの手段で質問をしてはならず、命を奪ってはならず、休養や食糧を与え、安全を保障し・・・という、捕虜既定のようなものができあがった。
これは戦争のやり方に関するルールであって、これに違反した場合、戦争犯罪というふうに考えられて処罰される。具体的には、軍は独自の法律と検察、裁判所をもち、軍法にそむく犯罪行為は、師団ごとの軍事法廷で処罰される、という体系をとったわけです。ですから憲兵もいる。これはもっぱら軍人を取り締まる警察官のようなものですね。内部でそのように配慮すると同時に、敗戦国になれば戦勝国からさらに厳しく追及されるかもしれないので、より法を順守するようになる。これが20世紀の初頭の段階だと思う。
この戦時国際法には、付属する義務があって、この方に関して国内の軍人をよく教育し、戦時国際法を守るようにしなければならない、という規定がある。

日清戦争と日露戦争のときには、条約改正が進んでいなかったし、戦時国際法を守りつつ戦争をする能力があるということを証明する必要が大日本帝国にはあった。それで日本は、この戦時放棄の遵守に関して非常に無神経になり、捕虜の虐待もなく、理想的に近いかたちで運営されたという実績がある。これをみると、大日本帝国というのは、もともと戦時法規や国際法を守る能力のなかった国ではなく、それが国益にかなうと思ったときにはそれを守ったわけです。ところがその後、国際法規に関する教育がなおざりになり、日華事変以後はめちゃめちゃになった。1941年に定められた「戦陣訓」のなかの「生きて虜囚の辱めを受けず、(=捕虜にならない)」という規定が強調されたりした結果、玉砕や捕虜虐待が続発した。こういう事実関係があったのです。

(つづく)

加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣「天皇の戦争責任」

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