宗教の事件 91 橋本治「宗教なんかこわくない!」

●“生産を奨励しない宗教”が人間生活の上位にあったりすると・・・・・・

この章の“結論”である。

“生産を奨励する宗教”と“別に生産しない宗教”の話を、もう一度持ち出さなければならない。
宗教には二つの側面がある。“個人の内面に語りかける宗教=別に生産を奨励しない宗教”と、“社会を維持するための宗教=生産を奨励する宗教”だ。現代の我々は、普通に“宗教”というと、この“個人の内面=個人の幸福”ばっかりの、別に生産を奨励しない、ほとんど“生産の豊饒”に関心を持たない、キリスト教とか仏教のことばかりを考えてしまう。がしかし、“宗教”というものは“悟り”や“魂の救済”という、個人的局面に関わるものばかりではないのだ。“社会の繁栄=生産の豊饒”を願って、個人の内面にあんまり目を向けないで宗教だって、ちゃんとある。そしてそうなって問題になるのは、この二つの宗教のねじれ具合だ。

“個人の内面に語りかける宗教”である仏教やキリスト教は、セックスに対してあまりいい顔をしない。セックスを否定しないのは、“五穀豊穣”系の、“生産を奨励する=社会を維持する宗教”だ。

“豊饒”とは、すなわち“性交による豊饒”で、かつては“社会を維持する宗教”であった“民間信仰”には、必ず“性欲の賛美”がある。それは“豊饒の賛美”ということなのだから、あって当然で、そしてしかし、“個人の内面に語りかける宗教”の方は、そういう性欲を忌避する。仏教もキリスト教も、その点では同じである。「宗教といえば清らかな崇高、性欲といえばいかがわしい闇の邪教」という発想は、ここに由来する。性欲を肯定するのは、「即身成仏」を目標にして、性欲エネルギーを肯定する密教くらいだ。

問題はなんなのだろうか?

「キリスト教や仏教のような規制の宗教は、きれいごとだけで、性欲を肯定する密教だけが正しい」ということなのだろうか?そう言いたい人もいるだろうが、私の言うことは違う。もっと簡単なことである。それはつまり、「生産の空洞化は、いたずらな個人の神秘化を招く」である。

円高で「日本国内の生産の空洞化」が言われている現代ではあるが、“生産の空洞化”は、別に現代に始まったことじゃない。「仏教が栄えて国が滅びる」という言葉が昔あったことは、すでに言った。俗世間を一段と低くみる“生産を別に奨励しない宗教=個人的なことを問題にする宗教”は、その初めっからそうなのだ。“個人の内面に語りかける宗教”は、自分からはなにも生産しないで、宗教の外にいる生産者の施しによって生きている。腰を低くして喜捨を得る宗教もあるが、生産者からの支持や信仰を勝ち取ってしまうのだから、人間というのは不思議に矛盾した生き物である。

時として人間は、“大切な仕事”とか“社会”とか“他人との関係”とかを放っぽり出して、ひたすら自分のことばっかりを問題にしてしまうものである・・・・・・それも、別に今に始まったことではない。“生産を奨励しない宗教”は、初めっからみんなそうなのだ。“自分のこと”がまず最初にあって、その他の“俗事”はつけたし程度。

「そのこと(=自分のこと)がまず重要だ」と思えば、当面それだけでもいいだろう。しかし、「人はパンのみにて生きるにあらず」といわれる人間は、パンを食うんだし、そのためには、どこかで誰かがそのパンを作るのだ。“パンじゃないもの”を大切にするのもいいが、そういう時には、「生産の空洞化は、いたずらな個人の神秘化を招く」をいうことを忘れないようにしておかなければならない・・・・・・それくらい、現代では実生活にリアリティがないのだ、というだけの話である。

私は、円高日本の生き延びる道は、輸入を増やして物価を下げて、そのことから必然的に人件費も下げて、小さな規模での“生産”を再開発するしかないと思っている。それは、たとえて言えば、「工場制手工業(マニュファクチャー)の復活」である。なんでこんな唐突なことを言うのかというと、これまでの人間は“生産する”という生活体型の中で“人間に関する真実や事実”を学んできたからである。

今のままでは、人件費の少ない安い海外に工場を移転するしかない。日本の人件費が高くなりすぎたからだ。しかし、日本人がそんなに全員高給取りになったのかといったら、そんなことはない。物価が高く、人件費がそれに見合った高さになっていて、その結合状態が、よその世界から見れば異常な高さのところにあるというだけである。高い物価の筆頭は、土地の値段であろう。土地の値段は、既に“借金”という形で凍結されている。土地や建物の不動産を持っている人間のかなりの部分は、同時に“膨大な借金”を抱えている。だからいまさら、土地の取引というものもロクな形では起こりえないし、収入の増加が見込めない社会では、“借金”という形で資産を抱えた人間達は、その金利の支払いに追われて、ロクな贅沢=浪費も出来ないだろう。結構な財産を持っているように見える人間達は、しかし“つつましい生活”をしなければならないという点で、低所得者とそうそう変わらないようになる。国民の間の賃金格差は開いたままであっても、その“使える額”に関してはそうそう大きな開きがなくなるような時代が、もうそこまで来てしまっている。だったら、物価は下げた方がいいのだ。賃金格差が大きく開いて、そこに“羨望”というものが入り込む余地のあった時代はもう終わって、今や百万円の差より十円・百円の格差が問題になるような時代になりつつある。“価格破壊”というのは、このような動きだ。

バブルの時代、百万円の現金にはロクな価値がなかった。そんな現金を使うよりも、一千万円を借金をした方が有利だったからだ。でも、そんな時代は終わった。今は、実際に使える百万円の現金の価値の方が重い。考えてみれば、これは金の価値がノーマルに戻ってきたというである。少額の現金にも重みがある。不景気でも物価が下がるというのは、そういうことだ。少額の現金に重みが出てきたのなら、給料が下がってもいい。人件費を下げなければ、生産の空洞化にしか行きつけないのなら、それをするしかない。

人件費を下げるためには、物価を下げるしかない。物価を下げるには、高い人件費を被せられている国内製品を避けて、輸入を増やすしかない。そうして貿易黒字を減らして、過剰な円高をノーマルな円安状態に持って行くしかない。そのためには、一時的に国内産業が大打撃を受けるだろう。大打撃を受けながら“安い人件費による高度な生産”という状態を回復するしかない。もっと正確な言い方をすれば、“適切な人件費による高度な生産”だ。資源が多かろうと少なかろうと、世界が丸い以上、“貿易”ということを切り捨ているわけにはいかない。だとしたら、日本がこの後も貿易を継続出来るようになるためには、“適切な人件費による高度な生産”を回復するしかない。それをどうするのかといったら、当然“機械化”とは反対の“高度な技術を持った人間の手による工場制手工業”しかない。農業も漁業も商業も、すべての産業はそういう形でのハイテク化を目指すしかないだろう。なぜならば、それは、「人間対人間の関係で、労働現場で直接人間が技術を教える」ということを必要とするからだ。それをしなければ、“具体的な人間関係”が滅んで、もう生産もへったくれもなくなるだろう。


(つづく)


橋本治 「宗教なんかこわくない!」

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