別役実「犯罪症候群」 浅間山荘事件(最終回)⑤

もちろん彼等が、外在する政治目標をまったく失っていたとも思えない。そうだったら当然、彼等はそこで解散してたであろう。彼等は、外在する政治目標を持ち、当然、それをねらっていたのだが、それに熱中することで失うものがあることを知っていたのである。

たとえば、彼等の側に立って、外在する政治目標をねらうということがどういうことか、考えてみよう。たかだか数十人のメンバーで、しかもわずかな武器で、ということになれば、現実にねらえる政治目標などというものはたかが知れている。管理社会の政治的中枢、もしくは経済的中枢、そんなものの占拠など及びもつかない。しかし、いいことに、情報化された文明下においては、政治的中枢も経済的中枢も偏在している。ここを押えれば、全政治的機能が、もしくは全経済的機能が停止するという場所はないかわりに、どこで何をやっても、たちまち情報の網にひっかかって、文明に、ある衝撃を与えることができる。

しかも、革命軍が首相官邸に飛び込んだという事件よりも、革命軍がデパートに乱入して占拠したという事件の方が、情報はより混乱する。はるかに効果は大きいのである。当然彼等も、外在する政治目標をねらうという考えの中で、これらのことは理解していたであろう。要は一点を確保し占拠することではなくて、情報を混乱させることである。一点を確保し占拠することであるならば、その目標に向って、ひたすら、すばやく、たくみに、そして力強くあればいい。

そうではないのだ。彼等は、そうではない事情を、自らの中に確信したかったに違いない。

革命軍は、いかなる正当性をもって、首相官邸ではなく、デパートに乱入できるのか。これが、彼等に問われていた問題である。

革命は政治中枢もしくは経済中枢をたたくことによって成功する。ただし、革命軍は弱体であって政治中枢もしくは経済中枢をたたくだけの力がなく、同時に政治中枢もしくは経済中枢は、一点に凝縮して存在するというよりはむしろ偏在している。そこで、情報を混乱させることが、間接的ではあるがより効果的に政治中枢もしくは経済中枢をたたくことになる。したがって、首相官邸ではなくデパートに乱入することが可能である。ここまでは機能的に決めつけることができる。デパートに乱入することは、可能であり効果的であるが、それは何故正当か?

ここで、「革命とは、文明を見返す行為である」という言葉を発明してくることはやさしい。したがって、デパート乱入を通じて文明に反逆の姿勢を取るのは当然、正当なことなのだ。

しかし、この言葉を発明した時、彼等は政治家から宗教家に、「はい・いいえ」一派の人間から「わかりません」一派の人間に、すりかわったのだ。そのことに、彼等は気づいていなければならなかった。「革命を行なう」ということは、結果的に「文明を見返す」ことになるであろうが、「革命を行なう」ということと「文明を見返す」ということは、まったく別のことなのだ。つまり、「文明を見返す」ことによっては「革命は行なえない」のである。「革命を行なう」ことは、行為への熱心さによって表現できるけれども、「文明を見返す」ことは態度への熱心さによってしか表現できない。

彼等は「革命を行なう」ために「文明を見返す」ことをそれとこれを飛躍させたまま開始した。リンチ事件は、「革命を行なう」ためという錯覚のもとに、その実「文明を見返す」べく開始されたのである。もちろん彼等が、その時革命家ではなく宗教家にすりかわっていたことを最後まで気付いていなかったからといって、彼等を責めるに当たらない。そこで行なわれた営みの厳粛さは、それによって失われるものではないからである。彼等は、リンチ事件をくり返しながら、自らの内にある文明にグロテスクにもツメを立て、何度も何度も、幻のデパートに乱入し、人々の非難の視線の中に、自らのたましいを曝したに違いない。

「はい・いいえ」一派の人間が、政治的行動を取り、過激さの頂点を極めると、そこで「わかりません」一派にすりかわる。これはその典型的な例であろう。そしてもちろん、「わかりません」一派の人間の最も過激な行為は、自らを殺すことにある。ともかく、連合赤軍のこのリンチ事件の衝撃性は、まだまだ語りつくされてはいない。そして、もっと語りこまれなければならないほど、重要な事件である。

ただひとつ、私にハッキリといえることがある。我々は、1981年前、ユダによって完全となったキリストを得た。そして今日、我々はキリストなしに、ユダを得たのである。


<了>

別役実 「犯罪症候群」

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