リップの闘争

●1973年夏のフランスを揺るがせた“リップの闘争”
「リップ」は、19世紀の社会主義者フーリエ、ブルードンなどの出生地であり、作家のヴィクトル・ユゴーの出身地としても知られるブザンソンにある、一時計会社の名前である。社長はフレッド・リップ、従業員は約1300人で、フランス有数の時計メーカーであった。そのリップ社が1971年ごろから経営不振におちいり、スイス資本が導入されてリップ社長は退社することになったが、結局、72年4月、倒産に追い込まれた。つづいて従業員の解雇と工場閉鎖が予定されていた。

この時点で、特別の思想的背景も無く、さほど強い組合も持っていなかった1000人ほどの労働者たちは、カトリック系の組合指導者にひきいられて、工場の自主管理にのりだした。解雇されれば食っていけない労働者たちは、自主的に出勤して時計をつくり、その時計を売りさばいて、その売り上げから給料を手にいれる戦術をとった。もちろん、この戦術は企業の所有者及び経営者の意向とは真正面から対立するものであった。ただ、工場閉鎖の余波を受けることになる地元の住民や市当局は労働者に対して同情的であった。信望ある現地のカトリック司祭が公然と労働者に味方したとも伝えられる。

しかし、リップ労働者の行動は私有財産制と企業の自由に対する侵害・挑戦であり、近代法の原則からいって許されるものではなかった。経営者は裁判に訴えて労働者の排除命令をかちとったが、その執行が労働者の抵抗にあってすすまず、ついに、8月には警察機動隊の出勤となった。事態がここまでくると、たいていの場合、多少の衝突の末、労働者側が敗北することになるものだが、全国各地の労働組合や左翼政党から熱烈な支持をうけ、また時計の安売りで消費者とも緊密に結びついていた労働者たちは、警官の実力行使に抵抗したあげく闘争を打ち切ることになるよりも、無抵抗方針をとりつつみずからの生産と闘争をつづけることのほうを選んだ。

リップの時計生産は大部分が組み立て作業であったから、材料と工具を運びさえすれば、どこでも作業は継続できた。そこで、機動隊の突入にさきだって、かれらは市当局から提供された別の建物に立ち退いた。そしていっそう活発な宣伝活動を展開し、労働組織のみならず全国民の支援を求め、みずからの窮状と同時に正当性を訴えつづけた。

リップの争議はフランスを揺るがせる大事件となった。リップの労働者が行った工場占拠や自主管理は、それ自体は自然発生的なものであったけれども、政府にとっても労働界にとっても深刻な意味をもつものであった。かねてから“労働者管理”を社会主義建設の重要な柱とみなしていた統一社会党や社会党系の人々が、リップの“実験”を全力をあげて応援したことはいうまでもない。

リップ問題は全国的な論争を引き起こした末、結局、政府の介入によって政府資金をいれ、政府の任命する経営者によって経営が維持されることになった。労働者の要求は基本店で満足させられたわけである。しかし、重要なのはこうした結末ではない。リップ問題は現代世界に渦巻く“所有”“経営”“労働”のあいだの鋭い緊張関係を垣間みせた点において、またこの問題が現代の資本主義体制の根幹にふれるものであった点において重要である。

このリップのような闘争があり得たのは、1968年の「5月革命」が労働者の意識や行動にかなり根本的な変化をもちこんだことの結果である。つまり、労働者の政治的・社会的自覚の高まりと、生産や販売における技術能力の向上を前提とする現代社会では、好況・不況という景気循環にもとづくシワ寄せを、労働者が一方的に背負わされることへの反抗が生まれることは当然であり、そのさい法律や裁判制度、さらに警察力が障害物として労働者の前にたちはだかるとしても、それらは必ずしも威圧ないしは懐柔としての効果をもたないのである。

「5月危機」において噴出した青年や労働者の反抗のエネルギーは、こんにちもなお地下深く蓄積されており、機会があれば新たな表現を求めて噴出するばかりになっているという状況を背景におくことで、はじめてリップの闘争は理解されるであろう。それは労働者がいっそう貧しくなったせいではなくて、労働者の要求水準と社会的地位が高まったことの結果である。労働者は仲間たちのみならず、世論の力にも守られて、私的所有や企業の自由を侵すことになる“労働者管理”を短期間にせよ、事実上成功させるのである。所有の側からいえば、所有者や資本の利害が絶対権をもつという環境は、もはや維持されなくなっている。社会の転換という言葉が大袈裟であるとすれば、少なくとも既存の社会体制に亀裂が生ずるという事態が現代社会のただ中で進行しているというべきであろう。


河野健二 「フランス現代史」

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