意識の手を離すことで、技能が“身”につく

われわれの生活のすみずみに、無意識のあらゆる形態がつねに重層的に姿をあらわしている。人間関係の場でも、絶えず多くのメッセージが意識されぬまま行き交っている。(中略)

今の点は、実用性の観点からだけでも重要である。メッセージの等級が違うと、それに応じて「真実の等級」が違ってくるからだ。メッセージが意識的・意図的なものである限り、そのメッセージは偽りのものにもなりうる。ネコがマットの上にいないとき「ネコはマットの上だ」ということはできるし、愛していない相手に向かって「愛してる」ということもできる。しかし話の内容が関係そのものに及ぶとき、その発話にはふつう、意識によってコントロールできにくいシグナル群がついてまわる、そして言葉によるメッセージよりも、それに対するコメントとして位置づけられる体感的なメッセージのほうに、人はより大きな信頼を置くものである。

芸術作品が、芸術家の技能(“腕”)を伝える場合も話は同様である。芸が「うまい」という事実そのものが、芸術的パフォーマンスにおける無意識の要素の豊かな広がりを証明しているのである。

以上の議論から、どんな芸術作品にたいしても、こんな問いをもって接することが適切だということが確認できたと思う。――「作品が内包するメッセージ素材のどの要素が、芸術家の心の(意識から無意識へ至る)どの階層と結ばれているのか?」感受性豊かな批評家は、まさにこの問いをもって芸術作品に接しているのではないだろうか。(そのことを意識してはいなくても)

この意味で芸術とは、われわれの無意識の層を伝え合うエクササイズであると言える。あるいは、この種のコミュニケーションがより十全に行なわれるようにわれわれの精神を鍛錬することをひとつの働きとする。遊戯行為であると言える。

さきほどアントニー・フォージ氏が引用したイサドラ・ダンカンの言葉を取り上げてみよう。彼女は「この踊りの意味は口で言えたら。踊る意味がなくなるでしょう」と語った。

彼女は言葉は複数の意味に解釈することが可能である。われわれの文化に深くしみついている。いささか粗野な前提からすれば、こんなふうに翻訳されるのだろう。――だって踊る意味がないんですわ。コトバの方が素早く、しかも明瞭に伝えられるはずですもの。」この解釈は、何事も無意識のままより意識した方がいいと考えるナンセンスと同類である。

イサドラ・ダンカンの発言から読み取れる別の意味はこうだ。――もしこれがコトバで伝えられる種類のメッセージなら、踊る意味はないかもしれなけれど、これはそういう種類のメッセージなのではない。むしろ、コトバに翻訳したのではどうしてもウソになってしまう種類のメッセージなのだ。なぜなら、(詩以外の)コトバに置き換えられるということは、それが意識的でメッセージだということを意味するわけで、この場合事態はそうではないからだ。

イザベル・ダンカンが、そしてすべての芸術家が伝えようとしているメッセージは、むしろこんな内容のものではないだろうか――「部分的に無意識的なメッセージをわたしなりにつくってみました。これを通して部分的に無意識的なコミュニケーションをやってみませんか。」あるいは――「これは、意識と無意識をつなぐインターフェイスについてのメッセージです。」

あらゆる種類の技能の伝達は、つねにこの種のものだ。熟達した芸を見たとき、われわれは「すばらしい」ことを意識するが、それがどうだから「すばらしい」のかを言葉でうまく語ることはできない。

芸術家は奇妙なジレンマに陥っているといえそうだ。訓練によって技能に熟達していくにつれ、自分がそれをどのように行っているのかが意識からするりと落ちていく、意識の手を離すことで、技能が“身”につく。

芸術家の試みが、自分のパフォーマンスの無意識的要素を他人に伝えることであるとしたとき、彼は一種のエスカレーターというのだろうか、動く階梯の上に立ちながら自分の乗っている段の位置を表現しようとするのだけれども、その努力そのものが断を上昇させてしまう。そんな状況にいるのだといえる。

これは明らかに不可能な試みだ。その不可能なことを、きれいにやってのける人達だというのがいるのである。

グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学」

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