草森紳一 「本の読み方」

『物心ついた子供のころから、頭髪が真白になった今日まで、のべつまくなし、本を読んできた気もする。しかし本を買うのも、本のある風景も大好きだが、自分が読書家だと思ったことは、一度もない。といって、積ん読主義ではない。
これまで読んできた本を気まぐれに冊数に還元したりすれば、恐らく多読家のうちに入るのだろうが、そもそもあらたまって「読書」しようと思ったことがないのは、ほんとうなのである。
趣味は「読書です」と平気で答えられる人など、うらやましいかぎりである。というより、気が知れない。本を読むのは楽しいが、楽しいからというわけではない。読書はするが、読書家ではないのは、そのためで、ましてや勉強のために読書することなど滅多にない、ともかく読むのである。
「物書きだから、習い性になっているのだろう。お前、マンネリだ」とあざ笑う男もいるが、むかしからそうだったようにも思える。病気といえば、病気かもしれないが、一週間顔を洗わなくても、本を読まない日はない。可哀そうといえば可哀そうだが、自分から、可哀そうと思ったことはない。』

『読書の味は中断にあり。といわないまでも、私など本を読むことがやめられないのは、おもしろいからでも、ためになるからでもなく、あくまでもそれらは結果論で、むしろ、たえず中断につきまとわれるせいでもある。
中断のまま終る場合も多いが、読書の再開を促す価値もあり、それが持続の母である。』

『読書といえば、頭のみを使っている人が多い。それは、誤解で、手を使うのである。本をもつのにも、手が必要である。頁をめくるにも、手の指がなければ、かなわない。読書とは、手の運動なのである。
ためしに他人の読書をしている姿をこっそり観察してみるがよい。たえず手が、せわしなく動いているのに気づくだろう。手のひらや、五本の指を器用に動かしながら本を読んでいる。読書は、麻雀と同じように、頭の運動なので、老化を防ぐというが、実際は手の運動だ。』

『読書といえば、すぐに人は、その本の中になにが書かれ、それに対して、何を感じたかばかりを考えたがる。私も、「書評」をたのまれると、つい、そうなってしまうのだが、生活の中の読書は、そんな大袈裟なものではない。
もっと、いろいろな場所で、いろいろな時間帯の中で、いろいろな状況の中で、人はいろいろな格好をしながら、自由で、かつ不自由な「本の読み方」をしている。』


草森紳一 「本の読み方」

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