宗教の事件 78 橋本治「宗教なんかこわくない!」

“愛情”と言えば話は簡単みたいだが、愛情にだって、いくつもの“局面”がある。(段階かもしれないが)。
人間関係における“愛情”を、“濃度”によって分けると、「別に愛情があるわけじゃないけど、関わりがある」というのと、「そこから“仲がいい”という濃密な状態が生まれている」というのと、「特に“濃厚な愛し合っている”という状態になっている」というのと三段階がある“愛情”を言うと、必ずこの一番最後のものをさしてしまったりして、まず一番最初の「ただの人間関係がある」というのが、どっかに行ってしまう。“恋愛関係というものを経験したことがない人間ほど、いきなり一番最後の“濃厚”に行ってしまうものだ。

一番最初の“ただの人間関係”を経験しない人間が、いきなり一番最後の“濃厚な愛情”を求めると、「見知らぬ男に待ち伏せされる女の恐怖」という者になる。この“男”と“女”は、いつでも容易にひっくり返る。だから当然、「見知らぬ男に待ち伏せされる男の恐怖」だってある。基本的な人間関係を知らないでいきなり“濃厚な愛情”に行ってしまえば、こういうことは簡単に起こる。そして、こういうことは、いたって簡単に起こっているのだ。(こっそり白状するが、私は実のところ、それでとっても困っていた)

昔は、この愛情の三段階のその上に、“最も崇高なる神の愛・神への愛”というものがあったのだろうが、今の目で見ると、これは、「三番目の愛情を知らない人間がいきなりすっ飛んで行ったスットンキョー」のようなものだ。気にさわったらゴメンなさい。

今の日本人……特に自分の頭でものを考えざるをえなくなってしまった人間は、この“愛情の三段階”を、まったく理解していない。(だから勝手に“四段階目”を想定してしまうのかもしれない)

“自分の頭でものを考えざるをえなくなる”というのは、実のところ、“ひとりぼっちになってしまった”ということである。だからしようがない。自分の頭でものを考えざるを得なくなる。しかも日本では、これがいきなり来るらしい。なにしろ日本という国は、原則として、“自分の頭でものを考えなくてもいい”ということになっていたところだから、それが、「気がついたらいつの間にかそういう幸運状態がなくなっていた」になると、急にドッと来る。気がついたら“いきなり孤独”で、気がついたら“それに対処する方法”をなんにも知らない。そこでパニックに陥って、いきなり“最も濃厚な愛情”を求めることになってしまうのだろう。“人間関係”という一番素朴な愛情からスタートさせて、コツコツ“愛情”というものを蓄積させないと、こういう“濃厚な愛情”にはたどりつけないことになっているはずなのだけれども、“コツコツ貯める”というセコいことが嫌いな人間ほど“一発勝負の大逆転”を狙うように、こちらも、“いきなり濃厚な愛情”になる。なって、「そんなことされる覚えなんか全然ない」と言う相手から、恐怖の悲鳴を上げられたりもする。

本当に、愛情に関して不器用な人間が多くなったから困る。“愛情に関する知識や経験の欠落した人間”と言うべきなのかもしれないが。

セックスの経験だけあって、愛情に関する経験が希薄な人間は、知らない間に、“いきなり濃厚な愛情を一方的に求めて待ち伏せをする人間”になってしまうのだけれども。

「愛情に飢えている」という自覚だけがあって、「愛情に飢えている」ということを認めるだけの勇気のない人間ほど、知らない間に“最も濃厚な愛情”を求めてしまっているのだけれども。

ハタから見れば、「どうあったってアレは“愛情に飢えている”ということでしかないのに」が簡単にわかるのに、しかし当人の側に“愛情に関する知識”というものがすっぽり欠落してしまっているために、なんだか分からないまま“濃厚な愛情”と思われるものの中にすっぽりとはまり込んでいる人間もいる。

みんな「こっちの勝手だろ」とは言うが、そういう人間の身近には、「勝手なら勝手でいいけど、それで本当に幸福なの?」と言ってくれる人間がいない。また、そういう人間がいたらいたで、そういう人間に対していきなり“濃厚な愛情”を発揮してしまうもんだから、自分で自分の問題をこじらせてばかりいる。本当に、“愛情に関する常識の欠落”にも困ったもんだ。

さて、そういう“愛情に関するギャップ”もあって、そして話は相変わらず、“宗教に関するギャップ”である。


(つづく)


橋本治 「宗教なんかこわくない!」

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