よりゆっくり、より近く、より寛容に

減益計画でも十分にやっていけるのは、主に内需型企業です。片や、輸出主導の企業は海外との競争で利益を出して最新鋭の工場を建設しなければなりません。ただ、地球はいずれ「閉じる」ので、グローバル企業の販売元も、そのうち「閉じる」ことが確実です。ですから、放っておいても次第にグローバル企業がリージョナル企業に収斂していくはずです。よくいわれているように、「グローバル企業」と「リージョン企業」に分けて、両社が併存すると考える必要はないのです。

会社を取り巻く関係もシンプルにすることです。「生産と消費の間に、商人の長い連鎖が張りめぐらされていったし、(中略)市当局をして、黙認するか、少なくとも、取締まりの手を緩めさせたのだった。こうした連鎖が長くなり、それが習慣的な規則や取締まりを逃れるようになるにしたがって、資本主義のプロセスがよりあからさまになってゆく」(ド・ブローデル)。取引が複雑になればなるほど、「通常の監視の目を逃れ、その裏をかくこともできる」(前掲書)のですから、取引の連鎖は短くしたほうがいい。

私は21世紀の原理は、「よりゆっくり」、「より近く」、「より寛容に」であると考えていますが、このように「よりゆっくり」を企業に当てはめれば、減益計画を立てることであり、「より近く」は現金配当をやめることです。

減益で十分であれば、企業経営者は、「よりゆっくり」と企業の生末を考えることができます。足元の積み上げが将来につながるわけではありません。足元の利益を積み上げれば積み上げるほど、将来の方向とずれていきます。

また、すでに過剰な資本が存在するのですから、地球の裏側から株主を募る必要はありません。売上先が地域であれば、株主も地域住民でいいはずです。グローバル企業を目指すのではなくて、「より近く」の地域の会社になることです。

それには、現金配当を止めて、配当は現物給付にする。そうすると、地球の裏側の株主は自動的に離れていきます。前述のように170兆円強にものぼる「消えた雇用者報酬」を、向こう20~30年、年6兆円程度の個人所得税減税の実施で取り戻していけば、外国人株主が日本株を売却したときに、地域住民が直接、株主となることもできますし、あるいは地域金融機関が、集まった預金を元に地域会社の株主になることも可能です。

そして、働き方も「よりゆっくり」にすべきです。具体的には働く年齢を26歳にあげて、社会に出るのをゆっくりにし、学生の期間を長くする。近代というレールがなくなっているわけですから、大学で1つの学問を修めただけでは、激変する社会に対応できません。最低2つ以上の学問を修め、中世で重要視されていたリベラルアーツを習得することです。

学生が社会に出る年齢を上げれば、引退時期も延ばしたほうがいい。幸い、日本の健康寿命は延びています。20年前に比べると11歳若返っている、という研究結果も出ています。(毎日新聞、2016年9月1日)。そうであれば、日本は世界に先がけて、生産年齢人口を26歳から75歳とすればいい。なにも15歳以上64歳未満が生産年齢だというILОが決めた定義が、後生大事に守る必要はありません。

3番目の「より寛容に」は、近代が目指してきた「より合理的に」の反対概念です。もともと16世紀は。寛容主義者エラスムスの時代といわれていました。カトリックからもプロテスタントからも尊敬を集めていたのがエラスムスです。しかし、結局、彼をもってしても、三十年戦争を避けられませんでした。

彼の思想である寛容主義はいったん、合理主義に道を譲ってしまいましたが、近代合理主義も限界に達した今、わたしたちは拠りどころとすべきは、エラスムスではないでしょうか。合理性とは少ないインプットと多くのアウトプットを求めることです。これまでみてきたように、それが、人口減とイノベーションの低下を招来しているのです。

寛容主義は常に実験です。隣国が何を実験しているのか、あるいは過去の先人たちがどのような実験をしてきたのか、それを見習って、隣国より、あるいは先人たちより少しはましな仕組みを考えなければなりません。

近代レースの尖塔に躍り出た日本のなすべきことは、近代以前、中世を研究することです。外国に行って見聞を広げろ、というのは近代化で欧米に追いつき追い越せの時代のことです。商社に入社して海外勤務はいやだという若い社員の方がよほど、21世紀の将来がみえているのでしょう。

もちろん組織の一員である個人のレベルでも価値観の転換は必要です。

歴史学者の野田宣雄は、著書『二十一世紀をどう生きるか』の中で、「中世の『身分』に代わって近代社会を生みだした『職業』というものほど、人びとを夢中にさせ、人生の空虚さから人びとの関心を逸らすに適したものはなかった」「しかし、職業が先進諸国の大多数の国民にとって確たる生きがいのよりどころであると見えたのは、科学技術の発展の度合いをはじめ、いくつかの要因が相互に危うい均衡を保っていた間だけのことで(中略)この二、三世紀の近代という時代に特有なことであった」と、「職業」が近代の産物であることを指摘し、「大多数の人びとにとって職業が人生の中心的な位置から滑り落ち、職業と人生が乖離を深めていく。それがいかに重大で深刻な問題を提起しているかが、二十一世紀を論ずる際にまだじゅうぶんに考慮されていないように思われる」と警鐘を鳴らしています。

作家ミヒャエル・エンデがいうように、もはや貨幣は仕事の等価代償ではなくなっています。その中でどう働いていくか、私たちの価値観が問われるところです。

私たちはこのあたりで、近代資本主義の「より速く、より近く遠く、より合理的に」を見直してみるべきでしょう。株式会社の終焉をしっかりと見つめながら「よりゆっくり、より近く、より寛容に」という中世の原理に、今一度立ち帰ってみることが必要とされているのです。


水野和夫 「株式会社の終焉」

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