シャドウ・ワーク③

<シャドウ・ワーク>にかぶせられている第四の覆いは、家事について執筆するフェミニスト主流派によるものである。彼女たちは家事が重労働であることを知っている。彼女たちはそれが支払われないことに腹を立てている。たいていの経済学者とは異なり、彼女たちは、その賃金が取るに足りないどころか、失われた賃金が巨額に上るものと考えている。さらに彼女たちのうち幾人かは、女性の仕事が「非生産的」でありながら、しかも「本源的蓄積の秘密」の主要な源泉をなしており、これこそ全知マルクスを当惑させていたひとつの矛盾であると信じこんでいる。彼女たちはマルクス主義の眼鏡にフェミニストのフィルターを取り付ける。彼女たちは、専業主婦を賃金稼得の家長に結び付けている。その際、男根よりもむしろ彼の給与の方が羨望の主要な対象となっている。彼女たちは、フランス革命後になされた女性の「本質」の再定義が、男性のそれと相並んですすめられたものであったことにこれまでのところ気づいていないようである。彼女たちは、それゆえに二重に盲目である。ひとつは、成長を目指して階級的が仕組んだ19世紀の陰謀にたいして。そしてもうひとつは、両性間の経済的平等をはかるために彼女たちが各家庭内に持ちこむ20世紀の争いによってその19世紀の陰謀が強化されるのだということに対して。この家庭内闘争の係争点は、かつて家のなかで実際にズボンを奪い合ったのとは異なり、社会一般における抽象的な役割をめぐるものとなってきている。このようなフェミストによる女性中心のものの見方は、仕事のうえでの差別の事実を公にすることに役立っているばかりか、彼女たちが支払われない労働の不名誉性を公にすることに役立っている。けれども、彼女たちがこの運動を推進することによって、かえって問題が雲ってしまうようなことになってきている。ここで鍵となる問題とはつぎのようなことである。すなわち、現代の女性は、経済的見地からみて報酬が支払われていないことに加えて、人間生活の自立・自存の見地からみても実を結ばない労働を強いられており、そのためにかたわ者にさせられているという事実である。

しかしながら最近では、女性の仕事を研究する何人かの歴史家たちが、伝統的に分析の枠組や接近方法を超えるような洞察を進めてきている。この新たな歴史家は使い古された専門家の眼鏡をとおして自分たちの問題を眺めることを拒否し、むしろ学界のルールを破って問題を見つめることを選んでいる。この人たちは、子どもの誕生、母乳による養育、家の清掃、売春、婦女暴行、建設技師、薬剤師とその仲間など、歴史の座にあった連中がいかにこの雑然とした宝さがし袋の中身に手をふれて、さまざまな症候をつくり出し、目新しい療法の数々を売りに出すようになったのかを明らかにしてきた。彼らのうちの幾人かは、新興都市スラムにおける第三世界の女性の家庭生活の様子を解明し、それを地方での暮らしと対比させている。別の人たちは、隣人や診療所、それに政治的団体の中で、女性のために発明された「無償のしごと」について探索を行なっている。

産業社会をうす汚れた日陰の底辺から観察しようとする先導的な革新者たちは、これまでかくれていた種々の抑圧に光をあてて詳細な検討を行なっている。そこで彼らが報告しているものは、既成の「主義」や「学」にあてはまらない。産業化の影響を上から見下ろすやり方とはちがい、彼らが見出すのは、経営者たちが述べる成功の頂点や労働者たちの感じる裂け目、空論家の押しつける原則などとはまったく異なったものであることが明らかである。そして彼らは、民族人類学的な探検家のように修練を重ねていっそう習熟した目で「ヤマデ族」(中央アフリカの一部族の名称。イギリスの人類学者エヴァンス・プリチャードが1926年~30年に調査対象とした)を観察したり中世プロヴァンスの村の司祭の生活を再構成したりするのとは異なった探求眼で問題をみる。こうした通念とは異なる探求は、いまや長きにわたって存続してきた学問的で政治的な二重のタブーをうち毀す。そのタブーとは、一つは産業的労働のシステム双生児的性質を隠す<シャドウ>であり、もう一つはそれをいいあらわす新たな用語を捜すことへの禁制である。

(終わり)

イヴァン・イリイチ「シャドウ・ワーク」

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