桶谷秀昭「昭和精神史」戦後篇 広田弘毅③

米国最高裁判所への上訴は、被告のおほかたの心情はこれをいさぎよしとしなかつたが、訴訟上の手つづきということで納得した。そのために刑の執行が延びたのである。米国最高裁判所は、多数意見として、上訴を却下した。極東軍事裁判所は、聯合国最高司令官ダグラス・マックアーサアの設置したもので、合衆国の裁判所ではないゆゑに、その判決および刑を審査したり、破棄したりする権能を合衆国最高裁判所は持たない、といふのがその理由である。

しかし少数意見としてダグラス裁判官は、却下理由に異を唱えた。これは法律問題ではなく政治問題である。「戦争犯罪人の処罰に関する外国人に関する限りは、戦争遂行の一部である。それは違法行為に対する報復により、敵の戦力を弱体化するための敵対行為の強化である。」よつて、司法審査の対象となるものではない。

たいへんはっきりした見解で、極東軍事裁判は裁判ではなく、戦争遂行の一部である政治行為である、戦争はまだをはつてゐないといふのである。

米国最高裁判所が上訴却下の判定を下したのは十二月二十日、総司令部は直ちに死刑執行日を四十八時間後に決めた。被告たちは二十一日午前九時に刑の執行の予告を聞いた。

死刑囚には教誨師といふものが付いて、心の平静を得るための助言を行うことになつてゐる。巣鴨プリズンには浄土真宗の花山信勝が教誨師をつとめてゐた。

花山教誨師は、死刑宣告五十一月の末まで三回の面接をおこなつたが、花山の話に廣田は耳を傾けるといふ風にでなく黙々として聴くのみで、家族のことなど伝へると、ときどき微笑を浮べるほかは、何も語らなかつた。

「何かいひ遺して置くことはありませんか。歌でも詩でも感想でも」

と花田が訊くと、「何もない」と廣田の答へは素気なかつた。

「ほかの方々は皆さん書き遺してをられますが」

東條英機は『我ゆくもまたこの上にかへり来ん国に酬ゆることの足らねば』といふ辞世の歌をのこした。

松井右根は五言絶句を書き遺した。「七十有年事 回顧恨恨長 在青山到処 行楽涅槃郷」

もっとも若い武藤章は「うつし身の折ふし妻子恋ふといへどますたけをは死におくれまじ」と歌つた。

板垣征四郎は「ただ“無”または“空”」と書いた。

土肥原賢二は「わが事もすべて了りぬいざらばさらばここらではい左様なら」と歌のやうなものをのこした。

木村兵太郎は「おれがお前たちの道しるべになつてやる」と夫人宛に書いた。

たつた一人の文官である廣田がなにもいひのこすことがないといふのが花山教誨師には不審だつたのであらう。それに廣田はプリズン内にしつらへてある仏間で、死刑囚そろつて、花山にしたがつて念仏を唱えるときも、ひとり何か仏典をよんでゐた。『大乗起信論』だつたであろうか。

廣田は髪と爪をトイレット・ペエパアに包んで、家族に渡してくれとたのんだだけである。

(つづく)


桶谷秀昭 「昭和精神史戦後篇 東條英機と廣田弘毅(下)」

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