パックス・エコノミカ

第一に、「パックス・エコノミカ」は、人々が自分で生活を維持することができなくなっているという仮定を蔽いかくしている。この平和は、新たなエリートに権限を与えて、すべての民衆が生きてゆくためには、教育、健康管理、警察の保護、アパート、スーパーマーケットなどに彼らが依存せざるをえないようにさせている。以前には知られなかったようなやり方で、それは生産者の地位を高め消費者を墜落させる。「パックス・エコノミカ」は、人間生活の自立を志向するものに「不生産的」、自律的なものに「非社会的」、伝統的なものに「後進的」のレッテルをはる。それは、ゼロ・サム・ゲームに適さないすべての地域の諸慣習にたいする暴力を意味するものである。

第二に、「パックス・エコノミカ」は環境にたいする暴力を促進する。この新たな平和は住民の無事を保証するが、この無事とは、商品の生産のために採掘される資源として、また商品の流通のためにあてられる空間として、環境を使用してよいということにほかならない。それは、共用地の破壊を許可するというよりもむしろ奨励するものである。民衆の平和は、共用地を守っていた。それは、貧民が牧場や森林に近づくことを守った。それは、道路や川が人々によって利用されることを保護した。それは、寡婦や乞食たちに環境利用の特別な権利を保留した。「パックス・エコノミ化」は、環境を稀少な資源として定義するものであり、その資源を財貨の生産や専門的管理において最適な使用に供するものである。歴史的にみるなら。これこそ開発が意味したもの、すなわち、領主の羊の囲い込みから始まって、道路を自動車使用のために囲い込んだり、望ましい仕事口を、12年間以上もの学校教育を受けた人たちに限定したりすることにいたるまでのすべてを意味するものだった。開発がつねに意味したものは、消費に依存しないで環境利用の価値に基づいて生き残ることを求める人々を、暴力的に放逐することだった。「パックス・エコノミカ」は共同地に対する戦争を予告するものである。

第三に、新たな平和は、男性と女性との新たな戦争を促進する。優勢をめざすこれまでの伝統的な戦いから男女間の新たな全面戦争への推移は、経済成長の側面効果について分析されることの最も少ないものである。この戦争もまた、いわゆる生産能力の成長の必然的な結果なのであり、その過程は、賃金労働が他のすべての形態の仕事をますます完全に独占することを意味する。だからこれもまた一種の侵略である。賃金に関わる仕事をこのように独占することは、人間生活の自立と自存を志向するすべての社会に共通する特性にたいする侵略となるものである。こうした人間生活の自立と自存を思考する社会は、たとえば、日本とフランスとフィジー島の社会というように、それぞれに異なってはいるけれども、すべてに共通するひとつの本質的な特徴点がある。すなわち、生活の自立と自尊の基盤を確保するのに必要な仕事はすべて、これは男の仕事、これは女の仕事というように、生(gender)に特有なしかたでふりわけられているということである。社会に必要とされる特有な仕事が何であるかは文化的に定義されるものであり、それはそれぞれの社会で異なるものである。だがどのような社会も、男または女にそれぞれ可能な仕事をさまざまに配置していて、各社会は固有で独自のパターンにもとづいてこれを行なっている。およそどんな文化にも、社会内部における仕事の配置が同一であるようなものは二つとない。どの文化においても、おとなになるということは、そこに特徴的な活動に従事する、また、そこにのみ特徴的に定まった男の活動または女の活動に従事するまでに成長する、ということである。産業化以前の社会において、男であり女であるということは、性別のない人間(genderless humans)に付け加えられる二次的な特殊性ではなく、そうであることにこそがひとつの行為におけるもっとも根本的な特徴なのである。「おとなになる」とは「教育をうける」ということではなく、女として、または男として行動することによって、生活に入ってゆくことを意味する。男と女の間のダイナミックな平和は、まさしくこのような具体的な仕事のふりわけからなるものである。このことは、単純に平等を意味するものではない。それこそ男女間の相互の抑圧を制限するものとなるのである。こうした男女の関係という身近な領域においてもまた、民衆の平和は、男女間の戦いを防止し、一方的な支配を抑止したのである。だが、賃金労働はこのパターンを破壊してしまった。

産業上の労働、生産的労働、中立的=中世的なものとみなされていて、経験の上からもそう思われることが多い。これらの労働は、男女いずれも従事しうる性別のない(genderless humans)労働と定義される。このことは、それが有給労働であるか無給労働であるかを問うものではない。また労働のリズムが生産によって定まっているか消費によって定まっているかを問うものではない。けれども、たとえ労働は性別のないものと見なされても、この性別のない活動へと近づく道は根底からゆがんでいる。男は、望ましいとみえる有給の仕事へとまず第一につくことができる。そして女は、残されている有給の仕事を割りあてられる。もともと、無給の<シャドウ・ワーク>を強いられたものは女であった。もっとも、男たちにも今日ではこうした<シャドウ・ワーク>が与えられてきているが。いずれにしても、このような労働の中立化=中性化の結果として、問題は不可避的に男女間に新たな戦いを促すものとなっている。それは、どちらか一方が性別ということで損をするといった、理論的には平等なもののあいだの競争にほかならない。ここには、稀少となってきている賃金労働を求める競争があり、また支払われることもなく生活の自立と自存に寄与することもない<シャドウ・ワーク>を避けるための闘争がある。

「パックス・エコノミカ」はゼロ・サム・ゲームを守り、その公然たる進歩を保証するものだ。すべての者がプレーヤーになり、「ホモ・エコノミクス」のルールを承認するように強いられる。このゼロ・サムのモデルに合うように行動することを拒否する者は、平和の敵として追放されるか、妥協するまで教育されるか、そのどちらかである。このゼロ・サムゲームのルールでは、環境と人間労働の両者はともに稀少な賭けである。そこでは一方が得をすれば他方は損をする。いまや平和の意味は、次の二つになってしまった。少なくとも経済学では、ニ足す二はがいつかは五になるというあの神話。そうでなければ、休戦そして行きつまり、開発とは、とりもなおさずこうしたゲームの拡大であり、また、ますます増えるプレーヤーとその賃金との合体にほかならない。それゆえ、「パックス・エコノミカ」の独占は、惨憺たるものとなりにちがいない。開発と結びつく平和以外が平和が存在するのではないだろうか。

次のように譲歩することもできよう。すなわち「パックス・エコノミカ」にもいくらか積極的な勝ちもなくはない。自転車はすでに発明されている。そしてその商品が流通する市場は、かつて呼称が取引された市場とは異なったものであるにちがいない。また経済力同士のあいだの平和は、少なくとも古代の領主たちのあいだの平和と同じくらい重要である。

だがしかし、こうしたエリートの平和の独占は問い直さなければならないだろう。この挑戦を理論的に定式化することこそ、今日の平和研究の根本的な課題だと、私には思われる。

イヴァン・イリイチ「シャドウ・ワーク」

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