良心

この文脈で、ハイデガーの「良心の叫び声(Ruf des Gewissens)」を想起することは、ダイモニオンの哲学的意味の了解のためには、なにほどかのヒントになるかもしれない。ハイデガーは、平均的日常性の中に頽落している人間に「本来的自己へ立ち戻れ」という良心の呼びかけがある、と言う。しかし、その呼び声は、実は「沈黙(Scweigen der Ruf sagt nichts aus)」である。すなわち、常識的な意味では、なんの声も聞こえてはこないのだ。かれの言う「呼びかけ」とは、「本来的自己」が己へと呼ぶことである。あるいは、「本来的自己」の底にある「無」としての「存在」が呼ぶことである。それは、いわば、人間が人間を自覚する時、感情としてではなく自己の本性の自覚としてわれわれに襲いかかる「無性の意識」とでも言うべきものである。しかし、この意識を人が持とうが持つまいが、「良心の叫び声」が指し示している事態とは、人間のこの「裸の事実(nacktes Dass)」、その被投性(Geworfenhelt)、「根拠なき存在者として深淵のうちに投げこまれてあること」を言うのであり、この事態を、われわれは世間のあれやこれやの楽しみや心配事に紛れて大抵は忘れている、ということに他ならない。「良心」はこの人間の真相を直視せよ、とわれわれに呼びかけているのである。しかし、実は、ハイデガーの語る意味では、ここに、普通人々の言う「良心」というようなものがあるわけでもない。かれの言う「良心」とは、本来的自己としての人間の事実のことなのであり、この事実が、己自身を直視せよと言っているのである。それは、人間の存在構造の問題であって、なにか特別の霊妙な経験の問題ではないということだ。ソクラテスにおける、「ダイモニオンの囁き」についても、それをなにかソクラテスにのみ固有の霊妙不可解な、したがって他者には無意味な出来事としてではなく、人間の本来的自己――「汝自身を知れ」の汝――に通ずる出来事として理解する道はないものだろうか。

岩田靖夫「増補 ソクラテス」(ちくま学芸文庫)p202

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