仏教の「楽」

中沢新一
チベット人のお坊さんから、ぼくが最初に学んだのは、「仏教とは楽になるための正しい教えである」ということでした。「楽」というのはチベット語で「デワ」といいますが、こういうときには「極楽(デワチェン=大きな楽)」という言葉が初めから意識されています。こう教えるんですね。「あらゆる生きものが楽になりたい、と思っている。でも楽になるための正しい方法を知らないので、苦しみから逃れることができないでいる。仏教はそこで、本当に楽になるための正しい道を教えるのである」。ここで英語のできるお坊さんだと、「楽」というところを「ハッピー」と訳していました。でももともとの語感だと、むしろ「リラックス」なんていう、気の抜けた言葉のほうが、言いたいことをよくあらわしていると思います。

そう言っておいて、生物たちが「楽」を手に入れるのに失敗していく様子を、つぎつぎと列挙していきます。微生物から始まって草食動物から肉食動物まで、どんな動物たちも苦しみを取り去って、楽を得たいと願っているのに、それができないでいる。巨大な食物連鎖の輪のなかに生きていると、お腹をふくらませて楽になりたいと、ほかの動物を殺しますが、お腹がいっぱいで楽になったのも束の間、またお腹は空いてきて、狩りを始めなければならない。それにどんな生き物も年を取る。そして死を免れることはできない。たとえライオンでさえ、年を取ればもはや安全ではなく、いったん力を失って倒れれば、ハイエナのような腐肉を食べる動物の餌食になっていく。動物たちは、どうしたら本当の楽を得ることができるのか考えるための「余暇」がない、って言うんですね。

人間に生まれたことの素晴らしい点は、食物連鎖を抜け出たおかげで不安や苦しみが少なくなり、本当の楽を得るためにどうしたらよいか考えることのできる「余暇」が、可能性として与えられている、ということにあります。ところがたいがいの人間は、そうやってあたえられているはずの「余暇」を、ちゃんと利用できないでいます。もっとお金が欲しいといってはあくせく働き、もっといい地位がほしいと言っては、あくせく学内や車内で政治活動にいそしみ、もっと名誉がほしいと言っては、勲章を手にいれるために時間を浪費し、そうでなくてもレベルの低い楽を楽しむために、くだらない他人のうわさ話に耳を傾け、娯楽にうつつを抜かしたりしています。なんという時間の浪費をしているんだろう、とお坊さんたちは僕の目をのぞき込むのです。たいがい当たっていますものね。

つぎは自分の人生をじっくり反省してみて、どんなにせっかくの「余暇」を自分が無駄にしているかを、考えさせてくれます、どうだ、わかったかい、どんなにうまいものを食べても、それは舌の上を通過していくわずかな時間にだけ味わうことのできる、はかない楽にすぎないし、どんな素晴らしい恋人との楽しい語らいも、時が経つとともに色あせていくだろう。お金や勲章は幻影にすぎない。そういうものは、けっして本当の楽を、私たち生物に与えてはくれないのさ、といって、だんだんと仏教に引っ張り込んでいくという手を使うんですよ。僕はみごとにはまりましたが。

河合隼雄
倫理的にせまるのではなく、自分の人生の損得をゆっくり考えてみなさい、というわけですね。

中沢 だから、「不幸」という言い方もしないんですよ。だいたい「幸福」と人がいっているものは、本当の楽を与えてくれないものとして、全部失格とされます。「ハッピー」も「ボヌール」もここではかたなしです。楽を「ハッピー」という英語で始めたお坊さんは、そこで現世の楽を「プレッシャー」と呼んで、けなし始める。「プレッシャー」のうちにとどまっていたんじゃあ、刹那的で生物としての条件に拘束されすぎていて、とても本当の楽に辿りつけない、というわけでです、と。こうしておいてから、「仏教は本当の楽を得るやり方を知っている」とくるわけです。

河合 そのときにね、たとえば「死んだら楽になる」という人があったらどうするんですか。

中沢 うーん、とてもいい質問です。チベットのお坊さんはそこでうまい説明をするんですよ。「死んだらたしかに楽になります」とくる。でもつづけて、死の瞬間には、いままでのカルマをつくっていたいろいろな結び目がほどけて、ほんの短い時間だけれど、誰でもが安楽浄土を見るという、とても素晴らしい体験をすることになりますよ。だから、たしかに死んだら楽になります。でもね・・・・・・。

河合 ああ、なるほど、なるほど。

中沢 ところがねって。

河合 そのあとが来る。

中沢 そのあとが来ちゃうんですよ。「冥加に悪い」に関係した話です。冥加は生前に積んでおいた善のストックみたいなもので、これがつぎの瞬間に働き出して、死後の意識が辿っていく軌道を決定する力を持っていると、いやなことを言い出します。つまり死んだ直後には、誰でも仏になって、極楽の状態を垣間見るんだけれども、その短い時間にみるものの意味がわかってないと、すぐにつぎの生誕に向かっての軌道に入ってしまうことになるのです。意味が完全にわかっていれば、極楽の状態にとどまっている。そうなるともう再生はありません。でも、たいがいの人間は冥加が足りないものですから、うろうろしているあいだに、あれよあれよと次の軌道に運ばれて行ってしまって、また本当の楽を取り逃がすことになってしまいます。楽になれないわけですね。

河合 面白いね。だから自殺は悪ではないんですよね。そんな損なとをしたらだめだぞ、ということになる。

中沢 自殺は別に悪ではありません。この人生は、別に神様にいただいたものではなくて、カルマが寄り集まってできた自律体なんですから。自殺したからといって、生命を下さった神様に対して悪を働いるわけではない。でも、それをやると損しちゃうぞ、という認識法ですね。

河合 大変なことになる。

中沢 人生が苦しいからって自殺をすると、苦しみの根本原因が消滅できないままだから、またカルマが再結集してきて、誰よりももっと苦しみの多い生命となって生れてくる可能性大だからです。こういう考え方って、善悪の基準を持ち込んでないところが、とてもいいと思います。でもこの思考法が有効なのは、再生はある、という条件下でだけですね。

河合 そう、そう。

中沢 キリスト教の場合には、最後の審判まで待っていなくてはならないわけで、仏教に比べると、死後のイメージはたいへんスタティックです。しかし神様にもらったものを傷つけるのは悪だとか、生前の行為の意味が裁判にかけられるとか、なんとなく人間の行為を外側から縛っているように感じられるのですが、仏教の考えはもっと科学的で、こういう法則の物事は進んでいきますが、その法則をよく理解して損をしないようにして、正しく大楽に辿りつきましょう、と自律的な生き方を選択しなさいと呼びかけているところがありますでしょう。

河合 要するに自殺は本当にばかげたことだということになるわけね。

中沢 少なくとも、賢いやり方じゃないっていうか。

河合 一時的に楽であっても、そのあとで大変な苦しみを背負ってしまうので、結果的にはよけい損するわけですね。

中沢 僕はその最初の教えを聞いて、これは科学にも通じるような合理性を持っていると感じました。

河合 ただ、しかしね。仏教では、お釈迦様はそういう輪廻的なことは言わない。

中沢 そうなんです。お釈迦様は再生のことについては口にしなかった。

河合 それは黙っていたね。

中沢 ひょっとするとお釈迦様は人生一回きりと思っていたかもしれない、思うこともあります。

河合 そうですね。そうすると、お釈迦様にとっては、自殺はどうなっていたんでしょうね。

中沢 お釈迦様は最後に死ぬときに、「この世は美しい」といっています。「『この世は美しい』という真実を、自分の心でしみじみ理解するためには、自分が教えたような生き方をする必要がある」ということだけを、考えていたんじゃないかしら。

河合 これは非常に深い話ですね。「この世は美しい」と自殺にあたってしみじみといえる人は自殺をしてもいいことになるのかな。そんな人は自殺しないとも言えますが。

中沢 さっきの話でいいますと、チベットのお坊さんのなかには、自殺する人がいるんですよ。しかもとても修業を積んだ、えらいお坊さんのケースがほとんどなんです。自分の肉体を傷つけない特別なやり方で、生命活動から抜け出しちゃうんです。まあそれを自殺と言うかどうかです。この方たちは「この世は本当に美しい」と知っているのだと思います。その美しいこの世と、大楽とを一つに結びつけちゃうようにして、この方たちは人生を去っていくんです。そうなると、も損得の話じゃなくなりますね。輪廻のことだって、信じているのかどうか、でも、少なくともお釈迦様は、それについて、口にしなかった。それを言い出したのは、後世の大衆仏教です。

河合 ブッダは賢いから言わなかった。

中沢 いまのダライ・ラマも、自分は再生しない、といっているようですが、お釈迦様の沈黙はそれにまさるすごさです。

河合 それもすごいと思いますね。釈迦にとっては輪廻するかしないかは問題でないのですね。輪廻するかしないかにこだわって立論してゆくと彼の思想は理解できなくなりますから。

中沢 生物は生存の条件から楽になれない、と仏教は考えます。どういうところが楽になれない限界かというと、細胞膜があるからでしょう。自分と外の世界を分けて、自分の世界の細胞膜のなかに自分の世界を完結して、この中で楽になろうとしている、という条件つけが、生物から苦しみを取り除けないんじゃないでしょうか。

だから現実の世界でどんなにがんばって見ても、それは自分の外側につくる多種多様な「細胞膜」をどんどん強固なものにしよだから現実の世界でどんなにがんばって見ても、それは自分の外側につくる多種多様な「細胞膜」をどんどん強固なものにしようとしているだけで、そうやって安全な「膜」の内部にこもって、一人悦に入っているような楽のもとめ方だと、本当の楽は絶対に得られないというのが、仏教の考えです。でもこれでは、個体性というものをあまりに大事にしていないと言って、西欧人にはちょっと受け入れがたい考えでしょうね。西欧の人はとかく免疫抗体を強固につくって、ちゃんとした個体をつくって、その個体の内部で豊かになっていきましょう、と発想しますから。

河合 そう、そう、それが幸福だ。

中沢 ところが、仏教の考えだと、この厚い「膜」があるかぎり、いくらがんばってもだめだと考えます。

河合 だからその「膜」の存在を前提に幸福を考える。西洋近代と仏教とは「まるっきり逆」と言ってもいいぐらいでしょう。

中沢 たしかに、まるっきり逆なんですね。それなのに、自分の考えている風変わりなことを同じ「幸福」という言葉にすりかえて、ひどくわけの分からない思考を、日本人はつづけてきました。一度それをきちんと分けて、それから考え直してみるのが必要な時代になってきていませんか。

仏教の「楽」
中沢新一 チベット人のお坊さんから、ぼくが最初に学んだのは、「仏教とは楽になるための正しい教えである」ということでした。「楽」というのはチベット語で「デワ」といいますが、こういうときには「極楽(デワチェン=大きな楽)」という言葉が初めから意識されています。こう教えるんですね。「あらゆる生きものが楽になりたい、と思っている。でも楽になるための正しい方法を知らないので、苦しみから逃れることができないでいる。仏教はそこで、本当に楽になるための正しい道を教えるのである」。ここで英語のできるお坊さんだと、「楽」というところを「ハッピー」と訳していました。でももともとの語感だと、むしろ「リラックス」なんていう、気の抜けた言葉のほうが、言いたいことをよくあらわしていると思います。

そう言っておいて、生物たちが「楽」を手に入れるのに失敗していく様子を、つぎつぎと列挙していきます。微生物から始まって草食動物から肉食動物まで、どんな動物たちも苦しみを取り去って、楽を得たいと願っているのに、それができないでいる。巨大な食物連鎖の輪のなかに生きていると、お腹をふくらませて楽になりたいと、ほかの動物を殺しますが、お腹がいっぱいで楽になったのも束の間、またお腹は空いてきて、狩りを始めなければならない。それにどんな生き物も年を取る。そして死を免れることはできない。たとえライオンでさえ、年を取ればもはや安全ではなく、いったん力を失って倒れれば、ハイエナのような腐肉を食べる動物の餌食になっていく。動物たちは、どうしたら本当の楽を得ることができるのか考えるための「余暇」がない、って言うんですね。

人間に生まれたことの素晴らしい点は、食物連鎖を抜け出たおかげで不安や苦しみが少なくなり、本当の楽を得るためにどうしたらよいか考えることのできる「余暇」が、可能性として与えられている、ということにあります。ところがたいがいの人間は、そうやってあたえられているはずの「余暇」を、ちゃんと利用できないでいます。もっとお金が欲しいといってはあくせく働き、もっといい地位がほしいと言っては、あくせく学内や車内で政治活動にいそしみ、もっと名誉がほしいと言っては、勲章を手にいれるために時間を浪費し、そうでなくてもレベルの低い楽を楽しむために、くだらない他人のうわさ話に耳を傾け、娯楽にうつつを抜かしたりしています。なんという時間の浪費をしているんだろう、とお坊さんたちは僕の目をのぞき込むのです。たいがい当たっていますものね。

つぎは自分の人生をじっくり反省してみて、どんなにせっかくの「余暇」を自分が無駄にしているかを、考えさせてくれます、どうだ、わかったかい、どんなにうまいものを食べても、それは舌の上を通過していくわずかな時間にだけ味わうことのできる、はかない楽にすぎないし、どんな素晴らしい恋人との楽しい語らいも、時が経つとともに色あせていくだろう。お金や勲章は幻影にすぎない。そういうものは、けっして本当の楽を、私たち生物に与えてはくれないのさ、といって、だんだんと仏教に引っ張り込んでいくという手を使うんですよ。僕はみごとにはまりましたが。

河合隼雄
倫理的にせまるのではなく、自分の人生の損得をゆっくり考えてみなさい、というわけですね。

中沢 だから、「不幸」という言い方もしないんですよ。だいたい「幸福」と人がいっているものは、本当の楽を与えてくれないものとして、全部失格とされます。「ハッピー」も「ボヌール」もここではかたなしです。楽を「ハッピー」という英語で始めたお坊さんは、そこで現世の楽を「プレッシャー」と呼んで、けなし始める。「プレッシャー」のうちにとどまっていたんじゃあ、刹那的で生物としての条件に拘束されすぎていて、とても本当の楽に辿りつけない、というわけでです、と。こうしておいてから、「仏教は本当の楽を得るやり方を知っている」とくるわけです。

河合 そのときにね、たとえば「死んだら楽になる」という人があったらどうするんですか。

中沢 うーん、とてもいい質問です。チベットのお坊さんはそこでうまい説明をするんですよ。「死んだらたしかに楽になります」とくる。でもつづけて、死の瞬間には、いままでのカルマをつくっていたいろいろな結び目がほどけて、ほんの短い時間だけれど、誰でもが安楽浄土を見るという、とても素晴らしい体験をすることになりますよ。だから、たしかに死んだら楽になります。でもね・・・・・・。

河合 ああ、なるほど、なるほど。

中沢 ところがねって。

河合 そのあとが来る。

中沢 そのあとが来ちゃうんですよ。「冥加に悪い」に関係した話です。冥加は生前に積んでおいた善のストックみたいなもので、これがつぎの瞬間に働き出して、死後の意識が辿っていく軌道を決定する力を持っていると、いやなことを言い出します。つまり死んだ直後には、誰でも仏になって、極楽の状態を垣間見るんだけれども、その短い時間にみるものの意味がわかってないと、すぐにつぎの生誕に向かっての軌道に入ってしまうことになるのです。意味が完全にわかっていれば、極楽の状態にとどまっている。そうなるともう再生はありません。でも、たいがいの人間は冥加が足りないものですから、うろうろしているあいだに、あれよあれよと次の軌道に運ばれて行ってしまって、また本当の楽を取り逃がすことになってしまいます。楽になれないわけですね。

河合 面白いね。だから自殺は悪ではないんですよね。そんな損なとをしたらだめだぞ、ということになる。

中沢 自殺は別に悪ではありません。この人生は、別に神様にいただいたものではなくて、カルマが寄り集まってできた自律体なんですから。自殺したからといって、生命を下さった神様に対して悪を働いるわけではない。でも、それをやると損しちゃうぞ、という認識法ですね。

河合 大変なことになる。

中沢 人生が苦しいからって自殺をすると、苦しみの根本原因が消滅できないままだから、またカルマが再結集してきて、誰よりももっと苦しみの多い生命となって生れてくる可能性大だからです。こういう考え方って、善悪の基準を持ち込んでないところが、とてもいいと思います。でもこの思考法が有効なのは、再生はある、という条件下でだけですね。

河合 そう、そう。

中沢 キリスト教の場合には、最後の審判まで待っていなくてはならないわけで、仏教に比べると、死後のイメージはたいへんスタティックです。しかし神様にもらったものを傷つけるのは悪だとか、生前の行為の意味が裁判にかけられるとか、なんとなく人間の行為を外側から縛っているように感じられるのですが、仏教の考えはもっと科学的で、こういう法則の物事は進んでいきますが、その法則をよく理解して損をしないようにして、正しく大楽に辿りつきましょう、と自律的な生き方を選択しなさいと呼びかけているところがありますでしょう。

河合 要するに自殺は本当にばかげたことだということになるわけね。

中沢 少なくとも、賢いやり方じゃないっていうか。

河合 一時的に楽であっても、そのあとで大変な苦しみを背負ってしまうので、結果的にはよけい損するわけですね。

中沢 僕はその最初の教えを聞いて、これは科学にも通じるような合理性を持っていると感じました。

河合 ただ、しかしね。仏教では、お釈迦様はそういう輪廻的なことは言わない。

中沢 そうなんです。お釈迦様は再生のことについては口にしなかった。

河合 それは黙っていたね。

中沢 ひょっとするとお釈迦様は人生一回きりと思っていたかもしれない、思うこともあります。

河合 そうですね。そうすると、お釈迦様にとっては、自殺はどうなっていたんでしょうね。

中沢 お釈迦様は最後に死ぬときに、「この世は美しい」といっています。「『この世は美しい』という真実を、自分の心でしみじみ理解するためには、自分が教えたような生き方をする必要がある」ということだけを、考えていたんじゃないかしら。

河合 これは非常に深い話ですね。「この世は美しい」と自殺にあたってしみじみといえる人は自殺をしてもいいことになるのかな。そんな人は自殺しないとも言えますが。

中沢 さっきの話でいいますと、チベットのお坊さんのなかには、自殺する人がいるんですよ。しかもとても修業を積んだ、えらいお坊さんのケースがほとんどなんです。自分の肉体を傷つけない特別なやり方で、生命活動から抜け出しちゃうんです。まあそれを自殺と言うかどうかです。この方たちは「この世は本当に美しい」と知っているのだと思います。その美しいこの世と、大楽とを一つに結びつけちゃうようにして、この方たちは人生を去っていくんです。そうなると、も損得の話じゃなくなりますね。輪廻のことだって、信じているのかどうか、でも、少なくともお釈迦様は、それについて、口にしなかった。それを言い出したのは、後世の大衆仏教です。

河合 ブッダは賢いから言わなかった。

中沢 いまのダライ・ラマも、自分は再生しない、といっているようですが、お釈迦様の沈黙はそれにまさるすごさです。

河合 それもすごいと思いますね。釈迦にとっては輪廻するかしないかは問題でないのですね。輪廻するかしないかにこだわって立論してゆくと彼の思想は理解できなくなりますから。

中沢 生物は生存の条件から楽になれない、と仏教は考えます。どういうところが楽になれない限界かというと、細胞膜があるからでしょう。自分と外の世界を分けて、自分の世界の細胞膜のなかに自分の世界を完結して、この中で楽になろうとしている、という条件つけが、生物から苦しみを取り除けないんじゃないでしょうか。

だから現実の世界でどんなにがんばってみても、それは自分の外側につくる多種多様な「細胞膜」をどんどん強固なものにしようとしているだけで、そうやって安全な「膜」の内部にこもって、一人悦に入っているような楽のもとめ方だと、本当の楽は絶対に得られないというのが、仏教の考えです。でもこれでは、個体性というものをあまりに大事にしていないと言って、西欧人にはちょっと受け入れがたい考えでしょうね。西欧の人はとかく免疫抗体を強固につくって、ちゃんとした個体をつくって、その個体の内部で豊かになっていきましょう、と発想しますから。

河合 そう、そう、それが幸福だ。

中沢 ところが、仏教の考えだと、この厚い「膜」があるかぎり、いくらがんばってもだめだと考えます。

河合 だからその「膜」の存在を前提に幸福を考える。西洋近代と仏教とは「まるっきり逆」と言ってもいいぐらいでしょう。

中沢 たしかに、まるっきり逆なんですね。それなのに、自分の考えている風変わりなことを同じ「幸福」という言葉にすりかえて、ひどくわけの分からない思考を、日本人はつづけてきました。一度それをきちんと分けて、それから考え直してみるのが必要な時代になってきていませんか。

河合 隼雄・中沢 新一「仏教が好き! 」

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