退屈のあまり死ぬ

1968年5月に突如として発生した「5月革命」「5月危機」は、周知のように、既存の政治運動あるいは労働運動などから最も遠い場所にいた学生たちの反抗・反乱の結果であった。フランスにおける大学生の数は、1900年ごろに30000人、1950年に130000人であったが、「5月危機」の頃には600000人に近づいていた。社会が富裕となり、青年たちの都市志向が強まるなかで、パリ大学でも学生数が激増したので、バリ市の西の郊外ナンテールに分校をつくった。工場街の中に新設された大学は、環境も悪く設備も貧弱であった。学生たちは寄宿舎の管理についても、試験制度についても不満を高めた。大学当局は男子の学生が女史の寄宿舎をたずねることを認めず、また学生数を減らすために試験をむずかしくするのを狙っていた。ところが、大学生活についても、セックスについても、管理や拘束を極端にきらう新しい世代がすでに大量に育っていた。彼らは、戦後の経済成長社会がつくりだし、世の中に送り出した存在であった。かれらは、管理社会のなかでも最も古くさく、また拙劣な管理しか行われていない大学への攻撃をはじめることで、管理社会のすべてに対する異議申立てにのりだしたのである。

3月22日、アナーキスト系といわれる無名の学生コーン=ペンディットにひきいられたナンテールの学生は、学友の逮捕に抗議してストライキと建物の選挙を始めた。この「3月22日運動」は、やがてパリ大学の本拠ソルボンヌに波及した。5月3日、ソルボンヌでひらかれた学生集会に対して、当局は警察隊をいれて集会を解散させ、600人に近い学生を逮捕した。当時はアメリカのヴェトナム戦争に対する抗議運動がさまざまの形で展開されており、警察の介入もひんぱんであった。当局は騒ぎを扇動する少数の過激分子を取り締まりさえすれば、事態は片づくものと軽く考えていた気配がある。後にフランス共産党の書記長になるジョルジュ=マルシェも、コーン=ペンディットも“極左冒険主義者”ときめつけ、「われわれはこのにせ革命家の仮面を精力的にはがしていかなければならない」と説いていた。

だが、既成のいかなる政党や運動体による理解をも拒否して、学生たちは“噴出”した。この日から毎日のように何万人というデモが続き、やがて高校生も加わった。5月10日には、カルチェ・ラタンの道路上にバリケードが築かれた。警官隊は催涙ガス弾をバリケードに射ちこみ、学生たちはバリケードに火を放って、一晩中警察隊に対抗した。イラン訪問中であったポンピドゥー首相は、急いでフランスに帰った。かれは学生たちに要求をいれて、逮捕者の釈放とソルボンヌの再開、大学改革の促進などを約束した。

9月13日、学生たちは、再開されたソルボンヌに入り、後者を占拠した。大講堂で開かれた大会は、「パリ大学が自治的・人民的大学であり、昼夜をわかたず、すべての勤労者に開放される」ことを宣言した。大学の壁はいたるところに貼り紙や落書きで埋められた。学生たちは管理や抑圧に抗議し、権威や秩序を拒否し、社会からドロップ・アウトし、ヒッピーのように暮らすことやセックスのなかに“解放”をみた。「われわれは飢え死にすることがないという保証が、退屈のあまり死ぬ危険と交換されるいう世の中を拒否する」と、かれらの一人は書いた。飢え死にすることがないというだけでは、彼らの気持は満たされない。ドイツ生まれの哲学者マルクーゼは現代の西欧社会を“抑圧的世界”として特徴づけたが、いちおう寛容であるかにみえて、実は何をすることも許されず“退屈のあまり死ぬ”以外にない世の中を学生たちは告発しているのである。それは贅沢な悩みということができる。だが、その悩みこそは現代文明がうみだしたものであり、そこからの脱出こそが歴史の次の課題であることを学生たちは身をもって立証しようとした。だが、不幸なことに歴史はその課題を解きうるまでに成熟していなかった。学生たちの叫びはさしあたり、虚空の中に消え去る以外にはなかった。

しかし、結論を出すのはまだ早い。反乱ははじまったばかりであった。ソルボンヌを占拠した学生たちが学生コミューンを自称したその日は、あたかも10年前、ド・ゴール将軍の登場をうながす反乱がアルジェで勃発した記念日であった。この日、フランスの左翼政党と労働組合とは、約20万人の労働者・市民をレピュブリック広場に動員した。最大の労働組合組織であるCGT(労働総同盟)、エレクロトにクス・航空機などの先端技術の労働者を組織したCFDT(フランス民主労働組合)、それにさまざまの学生組織が加わった。政党からは共産党のロッシュ書記長、社会党の(統一社会党)モレ書記長、PSU(統一社会党)系のマンデス・フランス元首相、左翼連合のミッテラン総裁などが顔をそろえた。これらの大物たちと肩を並べて、一躍名士となったコーン・ペンディッドが威勢よく政治と警察を攻撃する演説をぶった。労働組合のかかげる赤旗にまじって、学生たちは黒旗をなびかせてデモに移った。

5月13日の夜から6月16日の日曜日まで、約一カ月、学生コミューンはつづいた。ソルボンヌに近い国立劇場のオデオン座も、学生たちに占拠された。屋上には赤旗と黒旗がひるがえり、屋内では革命の芝居ではなくて、革命の喧騒そのものがくりかえされ、次第にその影響をひろげた。影響は、無関心な学生層や地方の大学への波及を別とすれば、ほぼふたつの方向性を目指して拡大した。その一つは、その時まで未組織で未熟練であった青年労働者たちをとらえたことである。人民戦線内閣の時代に、工場占拠をともなう大規模なストライキが、自然発生的に下流の労働者のあいだからおこったことはすでにみたが、「5月危機」の時点でも“山猫スト”とよばれる非組織的な闘争がひろがった。管理社会の末端で単調な作業に従事する青年労働者にとっては、労働組合もまた一つの管理システムでしかない。かれらは学生反乱から刺激を受けて、工場の占拠や生産の直接管理「労働者管理」の方向にすすんだ。これはアナルコ・サンディカリズムを継承するものであった。


河野健二 「フランス現代史」

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