シモーヌ・ヴェイユ その極限の愛の思想

パリのリュクサンブール公園は、ソルボンヌ大学のすぐ近くにあって、むかしから学生たちにとって楽しい散策といこいの場所になっている。今ちょうど、女子学生もまじえた数人の学生たちが、笑いさざめきながら、公園の門をはいってきたところである。と、突然、その中のひとり、……男の子の着るようなみじかい服を着、両側の大きいポケットを一ぱいふくらませて、かかとの平たい短靴をはいた女の子が、度の強い近眼鏡のおくから、見すえるようにするどい目を光らせ、友だちのひとりの上着のそで口を引っぱりながら、こんな叫びをあげた……。

「・・・・・・どうしてまあ、あんたはそんなふうに笑っていられるのよ。中国じゃ、苦しんでいる子供たちがいるというのに・・・・・・」

唖然として、みんなは、笑いもせず、きっと張りつめた顔をこちらに向けている少女の方を見つめた。時は、1928、9年、中国では、蒋介石を首班とする国民党の攻勢が着々と進み、共産主義者たちの暗躍もさかんで、革命前夜の苦悩の時期であった。

この一ぷうかわった少女のことは、ソルボンヌ大学の学生たちのあいだでも評判になっていた。実存主義の哲学者、小説家として有名な、あのシモーヌ・ド・ボーヴォワールもちょうどこのころ、パリで学生生活を送っていた。その回想記「娘時代」の中にも、こんな話が出ている。

「・・・・・・その少女は、高等師範学校へ進む準備過程をおさめながら、ソルボンヌでわたしと同じ免状をそろえているところだった。頭がよいという大評判と、かわった服装とが、私の興味をそそっていた。アランの教え子であった学生たちの一群にとりかこまれながら、彼女はソルボンヌの中庭を散歩していた。彼女はいつも、ジャンパーの一つのポケットに、アランが主催する雑誌『リーブル・プロポ』、もう一つのポケットに共産党の機関紙『ユマニテ』をつっこんでいた。大ききんがあって中国が荒廃していたころで、その報道に接した彼女が泣きだしたという話を、わたしは人から聞いたことがある……」

そして、ボーヴォワールは、こんなふうに「世界中のどこへもおもむいて、そこで息づくことができる心をもっている」という点で、この友人に対し、深い敬意と、いくらかの嫉妬の入りまじった羨望の気持ちを告白している。

こんな話は、まだほかにもある。フランスの社会学者レイモン・アロン(1905年生まれ)の伝えるところによれば、あるうららかな春の日に、この女子学生がすっかりうちしおれ、顔面蒼白になって友人たちの前に現れ、ふいにこんなことを告げたという。「シャンハイで、ストライキがあったそうよ。ストライキを起こした人たちが撃たれたんですって……」

そのまなざしは異様につよい光を帯び、話をするときにはいつも頭をふりながらした。激情的に手足をふるわせ、おさえるように、ゆっくりと、一言しゃべるごとに鼻を鳴らすその様子は、(友人たちに言わせれば)「救世軍の女士官のよう」だった。そして、べっ甲の太い眼鏡をかけていたが、顔の線はほっそりと優美な名残りがみられ、いつも前かがみで、いかにも不器用そうな、ぎくしゃくした歩きかたをしていた、という・・・・・・。

その少女・・・・・・学生時代のシモーヌ・ヴェイユについて、友人たちが報告しているこういう数々のエピソードは、何を物語っているのであろうか。この若い時代から、早くも彼女は、時間と空間のあらゆるへだたりをこえて、問題の重さを、苦悩の厚みを、そのままに残りなく味わいつくすことのできる能力をまざまざと示していたのではないだろうか。

なるほど、まったくなりふり構わず、常に喫茶店に入り浸り、タバコをふかしながら男の子と議論をしあう彼女、抜きんでた才能と驚くような知識でいつも仲間をはるかに追い越し、めったに妥協を知らない圧倒的な理論で相手を屈服させずにはおかない彼女……こういう彼女に対して、一部の男子学生は「あの子は女じゃない」「いただけないやつ」とかいったかげ口をきき、「ペチコートをはいた定言的命令」などというあだなをたてまつっていた。

こういうシモーヌ・ヴェイユの行くところ、学校の友人ばかりでなく、いつものまわりの仲間たちの大部分は、ほんの少数の例外をのぞいて、一種の不安をもってながめていた。何かしらある根本的な追及が行われている場合には、周囲の日常性の基準にいやおうなく沈黙をしい、凡俗に困惑を与えずにはおかないような、一途な、断乎としたすがたがあらわれてくるものである。表面的に傍観しているだけでは、むしろ並の人間とは少々かわった奇矯な行動や、常識はずれのこっけいなことばかりが目立ち、いわゆる「健全な感覚」の持ち主なら、苦笑しながら、そっと顔をそむけるところかもしれない。こういう人たちの歩む道は、予想以上に、孤独で、きびしいのである。

ところで、シモーヌ・ヴェイユは、何に憑かれていたのであろうか。

このように、とおくにある他者の不幸をそのまま重さですばやく甘受しうる能力、並はずれた注意力によって、たちまちのうちに不幸の断片を敏感にとらえ、そのそこにひそむ痛みを自分も同じ程度まで味わいつくそうという欲求、わたしたちは、それをどう名づけたらいいだろうか。これこそ、シモーヌ・ヴェイユが後年、自ら定義したように、「不幸な人に注意を向け、思考によって不幸な人のもとへおもむき」「対象をあるがままに、その真実のすがたにおいて愛しようとする真の愛(『超自然的認識』)ではなかっただろうか。

このような愛が、シモーヌ・ヴェイユのもっとも重要なテーマとなるであろう。彼女の生涯をたどるということも、この愛の形成過程をかえりみ、それが現実のただ中へと血しぶくようにほとばしり出るさまを見きわめることに尽きるといえよう。


田辺保 「シモーヌ・ヴェイユ その極限の愛の思想」

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