桶谷秀昭「昭和精神史戦後篇」 広田弘毅⑤

花山はさらに執拗に廣田から何らかの言葉をひきださうとして喰ひさがつた。教誨師が死刑囚に喰ひさがるとは奇妙なことであるが、どうもさういう雰囲気であつたらしい。さして、思ひがけないことに、廣田の外交論といふか外交思想めいたものを聞くことになつた。

《「終戦前、ソ連と会議を持つことをお計りになつたということを聞いてをりますが、あれがうまく行つてゐればよかつたと思いますね》
「あれを始める時期が遅れたのです。もう少々前からやるべきだつたが政府がぐづぐづしてゐて・・・・・・」
「さうでせうな。半年くらゐ前にやつておけば・・・・・・」
「うむ」(中略)
「人類世界の大きな動きがあるから、それをよく見て行くやうにしなければいあかんですね。ロシヤの動きの真相を見てをつたら、あるいは第二次世界大戦は避け得たかも知れないのですがね」
「われわれは、アメリカのことだけを考へておりますが・・・・・・」
「アメリカは、常道を行く国ですし、ロシヤは、社会の大きな変動の上に乗つてゐる国ですからね。将来はロシヤを中心として、世界の変動がともなつていくといふことが、いちばん大きな問題でせう」》
(花山信勝『平和の発見』)

この会話の中で、廣田がソ連といはず、くりかえしロシヤといつてゐるのが注意を惹く。根岸佶(ただし)の思い出によれば、廣田がソ聯大使の時代(昭和5~7年)、何に気を付けてゐたかといふと、ソ聯研究の秘訣は、「ソ聯の言論と統計に迷はされない」ことだと語つたといふ。“社会主義平和共和国聯邦会議”といふ国名は変動してやまぬ“ロシヤ”こそ肝腎だといふのである。

また、中国についても、「シナを知るには南シナから」といふことをいつてゐたといふ外務省の後輩古田丹一郎の回想がある。

廣田のかういふ考へ方は、南京虐殺事件についても、「屠城」といふ清朝以来の中国人の歴史感覚をすでに承知してゐたのではないかと推測される。

極東軍事裁判における被告の個人弁護の論理は、概して平和主義者、国際道義の遵奉者を強調することによつて、「共同謀議」による侵略主義者といふ告発にたいするアポロギアを展開することであつた。平和主義者とか国際道義の遵奉者といふのは、いひかえれば、米英主導の国際聯盟的知性の優等生といふことである。

しかし廣田弘毅は、幣原喜重郎のやうな外務官僚とは異質な東洋的国土の風のある外交官であつた。つまり国際聯盟的知性の優等生ではない。馬場恒吾は、「廣田弘毅論」(昭和八年)で、「国際聯盟に関して、かれ(廣田)は日本人が国際聯盟を、余りにも重大視するのは錯覚だとする」と書いてゐる。それは「一つの倶楽部の集会」みたいなもので、そこで吐かれた言論にあまり神経を尖らせる必要はないといふ廣田の考へを紹介してゐる。

廣田は法廷における弁護人の労を多として感謝してゐたことにはまちがひはないが、そこで強調される平和主義者廣田像とのあひだに、つねに隙間風が吹くのを感じてゐたであらう。

昭和二十三年十二月二十三日午前零時になった。土肥原、東條、武藤、松井の四人が、松井の音頭で、「大日本帝国ばんざい、天皇陛下ばんざい」を三唱し、土肥原から順に十三階段を登つて行つた。

午前零時8分に、板垣、廣田、木村の三名が仏閣に来て、花山教誨師の読経を聞き、焼香をし、葡萄酒を飲んだ。花山は、最後のだめ押しのつもりで、廣田に、何か家族に伝へることがあるかと訊ねると、廣田は答へた。

「ただ健康で黙々と死に就いていつたといふ事実をどうかお伝へ下さい」

それから花山に、

「いま、マンザイをやつてゐたんでせう」

「マンザイ?あ、バンザイですか」

「さう、マンザイですよ」

廣田は板垣と木村に、「われわれもやらう」といひ、板垣に「あんた、おやりなさい」といつた。

二人のもと武官が大声で万歳を三唱した。廣田はひとり唱和せず「マンザイ」とまた、いつた。

彼の郷里福岡では、バンザイを訛つて、さう発言することがある。それを意識的に利用した。廣田の放つた最後の諧謔である。・・・・・・極東軍事裁判。この茶番劇はせいぜい漫才である。

絞首台の向ひ側の一段高くなつたところに、対日理事会を代表して四人の立会人が立つてゐる。シイボルト(米国)、P・ショウ(オーストラリア)、デレビヤンゴ(ソ聯)、商震(中国)。

午前零時一九分、まづ板垣征四郎が処刑台に進んだ。廣田弘毅は立会人たちに黙礼するやうに、彼らの顔をみつめて処刑台に進んだ。零時二十分にプロシイド(開始)の号令とともに、落し板の跳ねる轟音が処刑場に響いた。

<了>


桶谷秀昭 「昭和精神史戦後篇 東條英機と廣田弘毅(下)」

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