数と個体

バッタ、ミツバチ、アリ、ハエの数、大量生産方式のような数、彼らの闘いや本能的な行動は、主観的な感情や体験の現れというより、一個の知能の現れのように思える。われわれは彼らの魂は表面的な出来事の舞台にすぎないと言いたいくらいだ。虫たちの排卵、誕生、労働、性癖、共同体気質、戦争、死は、きわめて型どおりに指示されているように見える。彼らの英雄的行為はもっぱら軍隊式だ。手足を失っても苦しむ様子はない。体を半ば押し潰されながらも、完全に押し潰されてしまった仲間を食料か獲物として引きずっていく。わたしは想像を超えたことをよく繰り返し自分に言い聞かせた。サソリのオスはすなわち交尾後に内臓を引っこ抜かれる。――彼らの食ったり食われたりというのは、あまりにも頻繁に起こることで、あまりにも残酷な形で行われるので、この際限のない滅亡に、言語に絶する痛みが伴うということを、頭から否定したくなるほどだ。彼らの姿はナイフやノコギリで切り刻む機械のそれだ。あらゆる昆虫が甲殻を肌の上に纏っている、不気味な姿をした殺し屋の世界には、痛みなどまったく存在しないのだ。スズメバチの実験からはそう信じたくなる。こう信じたくなる誘惑に何度も駆られる。――だがやはり――苦しみが襲う対象は、決して数ではなく、いつだって個体なのだ。ネズミも痛みを感じるし、それは疑いようがない。ネズミは至って無防備だ。ネズミが苦しめられ食われることには変わりはない。なにしろ痛みは正確には定義されない。トンボには眼がある。周囲が見回せる。人間、ライオン、鳥、馬とは違った見方で、周囲を見ている。だがトンボが見ていることはまちがいない。色を識別している。広い水面を知覚し、植物や他の物のそそり立つ、大気に満ちた広大な空間を見る。自分の世界を。盲目になれば、その世界が奪われる。これは喪失である。手痛い喪失である。だが失うのは視力とはかぎらないし、他の部分を失うことだってある。すなわち血を失うことも、かすかに光る甲に隠れた肉体の中身を失うことも、アリがその中身を平らげることは証明可能だ。これは相手の抹殺だ。トンボは抵抗する、拒絶は本能の引き起こす筋刺激にすぎないのか?トンボは痛みのもたらす残酷な打擲を感じないのか?馬の感じる痛みも無言なのか?ならば魚の感じる痛みは?網にかかった魚が生きたまま、別の魚に骨を齧られるのを、わたしは見なかったか?貪欲なサメは鯨の脂身を、その胴体から食い千切らないのか?鯨はそれでも叫びを上げない!)

ハンス・ヘニー・ヤーン「岸辺なき流れ」下巻p131

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