戦争を裁くルール③

竹田 それは基本はさっき言われた死者への責任ということですか。

加藤 いや、この場合の天皇の責任は、先の道義的責任にかぎらず、広く被侵略国の住民および死者、日本の国民および戦争の死者にもおよびます。でも、この問題をいままでのとらえられ方から離脱させるカギは、とくに天皇の戦争の死者への道後的責任から、この問題を考えてゆくことだというのが、先に僕の言ったことだったわけです。詳しく言えば、国内的には、国民に対する同義的責任と政治的責任です。法的な責任については、あるとは言えない。また、これと別に、天皇を免責したうえで、日本国家指導者に「平和に対する罪」の責任があると東京裁判では言われているけど、僕はそれについては同意しません。

罪の概念についてはヤスパースが次のように分類しています。まず刑法的な罪というものがある。これは法を破った罪で、裁判所が裁く。次が政治的な罪で、これは政治的共同体のリーダーに課せられる。ただし、近代国家の場合は、国民がリーダーを選んでいるわけだから、その限りで国民も政治的責任を追う。戦争に負けたら、指導者だけでなく、その指導者を選んだ国民も不利益を被るということです。これは勝った側の権力が裁く、三番目の道徳的な罪で、これは個人の良心が裁く。たとえば、親しくしている人間から「なんだ、君はそんな人間だったのか、僕はもういやだ。つきあいたくない」と言われ、離反される。道徳的な罪は、そういうように友人との交流、そして個人の良心が裁きになる。その他にもうひとつ、形而上の罪と呼ばれるものがある。これは人間相互間の連帯感から生じる罪です。たとえば、見知らぬ人がガス室へ連れていかれるところに、たまたま居合わせたとする。それに抵抗すれば自分の命も危ないかもしれない。そういうような場合でも、それを黙って見送ったら、彼は自分の罪があると感じるだろう。でも、その見知らぬ人をガス室に連れていくのは自分ではないのだから、それは刑法的な罪でも政治的な罪でも道徳的な罪でもない。それ以外に罪であることをその事例は語っているというのです。その罪は、友人によって裁かれるのではない。彼は、自分が自分をかえりみて、罪を感じる。その場合、その罪の審判者は神だ、とヤスパースは言っているけれど、それはアウシュビッツや広島の生存者について言われる生き残ったもののうしろめたさに通じる罪の概念です。これを一般的な事例に敷衍するのはむずかしいけれど、それでも僕たちは、たとえば自分が歩いているときに、急に隣をイノシシが走ってきてバッグを牙に引っかけてもっていっても、イノシシに対して怒りは感じない。でも、それが人間なら、泥棒、と叫んで、それはおかしいじゃないか、と思う。それは、人間に連帯感があるからです。僕たちは普通、意識していないけれど、自分を人間だと思っている。だから、同じ人間がそういう目に遭うのを手をこまねいて見送れば、うしろめたいと思う。自分が自分を人間であるとみなすことのうちにも実は原初的な他者へのいわば相互主観的なコミットメントがある。この罪をそういうレヴェルに見合う罪と考えておくことができるかもしれない。法的なコミットから第一の罪が、政治的なコミットから第二の罪が、他の人間と関係を持つというコミットから第三の罪がでてくるとすると、人間であるという、いわば人間としてのじぶんとのコミットメントから、この第四の罪が生じてくる。ヤスパースは、罪の概念にはこの四つがあると言っているわけです。

それでいうと、こうなると思う。まず、東京裁判は「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という刑法的な罪を新しく設定したけど、それは遡及効禁止の諸原則にもとるなど、かなり問題があるので、置いておきます。この遡及効禁止というのは、人は、自分の行なった行為について、それが行なわれたときに存在しなかった法によっては裁かれない、というこどですね。「平和に対する罪」も、国際社会に対する平和侵略行為の十五年にわたる共同謀議を条件にしてますから、天皇を免責にしている以上なおさら、ちょっと適用に無理があります。あと、天皇の対外的な責任、これは、ひとつに法的には東京裁判の免責ということがあるうえ、政治的、道義的な責任についても、日本国民の代表という資格で彼にやってきているものですから、先に言った国民の対外的な責任との関係で考えなくてはならないことになる。だからこれは別に考えることにします。すると、こうなる。国内的には、天皇は法的には罪がありません。天皇は不可侵だという大日本帝国憲法を臣民は認めていますから。あと、政治的な責任、これはあるけれども、それを言うなら同じように、こういう政治体制を選んで支持して来た国民も大なり小なりかなり同罪だと言わざるをえない。ですからこの次元で国民が天皇を糾弾するなら、外からの目に、それは五十歩百歩と映るでしょう。だから、これも前に言った国民の責任と天皇の責任の分担、分別の問題になる。これもそのような問題として考えることにします。すると最後になにが残るか。「人間宣言」によってこの天皇が「人間」になったことによって戦後、新しく生まれることになった責任が残る。たしかにここまでの天皇なら、天皇個人としても責任を問えることは少ない。でも、「この人は、こういうことをやって、いったいどう思ってるんだろう」、「天皇をやめるならまだしも、こんなことをやって、そのあともずっと天皇を続けている。この人はどう思ってるんだろう」、そういう問いを、戦後の国民は、人間宣言をして今や人間になった天皇に感じることになる。つまり、国内的な道徳的な責任が残る。というか新しく生み出される。

竹田 もし天皇が自分の友だちだったらそういうかも知れないね。

加藤 そう。それがいわゆる天皇の国民に対する道徳的な責任といわれるものの中身です。同義的な責任が問われるには、たとえば友だちのような、そういったある種の関係が両者のあいだに成立していることが前提になる。そして日本の国民と天皇のあいだには、戦前と戦後の流れを通じ、そういうコミットメントが存在しているはずだと思う。それは、天皇を敬愛している、というようなことではありませんよ。日本国憲法が定める、主権者としての国民と、その国民統合の象徴としての人間たる天皇の関係を基礎におくコミットメントです。僕は、第三レヴェルの同義的な罪と、ある意味で、第四レヴェルの形而上の罪というのは、昭和天皇の責任として残っていると思う。同義的な罪というのは、天皇と国民のあいだに生じるものです。第四レヴェルの形而上の罪は、うまく取りだすのがむずかしけれども、それを三島は小説「英霊の聲」で、天皇の罪として描いたと言えるかもしれない。その場合、彼はそれを天皇と戦争の死者、それも兵士として死んだ死者のあいだに成立する関係の罪として、取りだしているといえる。でも僕はそれを形而上の罪としては考えない。それを道徳的な罪として考えた。すると、ここに天皇のプロパー(本来的・本格的)な責任の核心として残るのは、天皇と戦後の関係のレヴェル、在日韓国人の竹田さんがいう「友達だったらそう言うだろうね」という。第三のレヴェルでの道義的責任ということになる。そして、この昭和天皇の国民に対する同義的責任のうち、最後の核心を体現しているのが、天皇と自国の戦争の死者の関係なんじゃないか、というのが、僕の考えなわけです。
それはいわゆる「戦争責任」というものとは違う。「責任」と言いたい。というのはそういう意味です。このあたりの点に関して、橋爪さんから考え方の違いを示してもらえるようだと、岐路がはっきりするかもしれない。

(つづく)

加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣「天皇の戦争責任」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?