大日本帝国の人びと⑤

竹田 加藤さんは一連の戦後論議で、戦後思想の扱いについて論じている。われわれはそれを読んでいるので大体輪郭がわかっているけれど、読者のために、ここで少し敷衍してくれませんか。

加藤 死者に直接に意味づけをするかたちで、その死者を肯定したりする追い方は、正しくないと思うわけ。戦争の死者を意味づけることなんてできないから、彼らを死者の意味づけられなさというところから考えていく。では死者の意味づけられなさってなんだろう。意味づけられないものとして死者を遇するってどういうことだろうってことになる。

橋爪さんの「戦争の死者は断じて正しかった」という言い方は、戦争の死者となった人びとが生きているときになした選択は、断じて正しかったんだという意味だと思う。そして、この言い方は、「戦争の死者は断じて間違っていた」という言い方があまりに直截的でどぎついため、その代わりに日本で戦後、ずうっと言われてきた、あの「戦争の死者はみんな犠牲者だ。だからその犠牲者のためにも生き残った人間が戦争が二度と繰り返さないように努めなければならない」という欺瞞的な言い方に対する、ひとつの反対命題になっていると思う。この言い方が欺瞞的だというのは、戦争の死者となった人びとが、その場に行き、選択し、迷った、ということをすべて捨象した一方的な言い方になっているからです。でも、戦争の死者となった人びとは、まず生きて、彼らなりに主体的に考え、悩んだあげく、戦場に行き、死んでいる。ですから、橋爪さんの言い方が、これまでの「戦争の犠牲者」という非常に浅い受けとめ方の欺瞞性をつくものである点に、まず敬意を表そうと思う。

でも橋爪さんの言い方だと、国の要請に公民として出征したというところで、この戦争の死者のとりだしは終わっている。そこまでもプロセスに対する判断というか、評価になっている。でも、その出征した人びとは、その後、国の要請に従って戦場に行き、この戦争が不幸なことにアジア方面での侵略戦争の性格をもっていたために生じるひとつの可能性として、アジアの非侵略地域で無辜の非戦闘員を殺傷し、そうでなくても迷惑をかけ、そして死んでいる。僕は、出征というところまでは、国民、まあ橋爪さんの用語法で言うなら公民でもいい、彼らがその義務を果たしたという次元でその行為を考えることができると思うけれども、この出征の先、戦場から死までというか、出征後は、その行為は別の次元に入っている。国との関係だけでは計れないと思う。なぜなら、もし、たんに日本軍とアメリカ国内内侍日本国内の関ケ原みたいな線上における戦闘というなら、ほぼ問題はない。でも、そこに第三者というか、他者は入ってきている。他者の生活領域で、他者をまきこんで、その戦争をおこなわれ、無辜の人間が殺傷されているからです。彼らにはそのことで重層化せざるをえないと思う。

また、その殺傷者は、国の命令を守り、橋爪さんの言う意味では公民としての義務に従って動員された人びとですが、その彼らも死に、その後、彼らを動員した国家は、大きく変転しつつ、しかし、しっかりと続いていて、いま僕たちが、その国の主権者だという関係にあります。こう考えたら、僕たちが彼らと無関係だということはありえないし、また、彼らのメタレヴェルに立っているというのでもないことがわかる。その後の国が彼らの観点からみたら、むしろかつての敵国に同化するというような性質の変転をみせているだけになおさらです。三島由紀夫は昭和天皇が戦争の死者たちを裏切っていると言いましたが(「英霊の聲」)、そんなことをいうなら三島も、僕たちも、みんな戦争の死者とはそういう関係にある。すると僕としては、僕たちの彼らとの関係はどうなるのだろう、と考えざるをえない。その関係を明らかにすることが、もしどのような意味でか戦後の正統性というものがあるなら、そこに関係してくることだという直観をもたざるをえない。

僕たちがアジアの無辜の死者たちと関係をもつとしたら、当然、同じ資格で、日本の死者たちとも関係があることになる。というより、僕たちは日本の死者たちと関係があるからこそ、アジアの無辜の死者たちと関係しているわけです。僕たちとアジアの無辜の死者たちをつなぐのは、彼らを殺傷した兵士が、いま僕たちが主権者である国の要請でその国のために出征しているという事実ですから。それが僕たちにとって自国の戦争の死者が持っている一番深い意味です。僕たちとアジアの死者と自国の死者は、そういう関係にある。

では僕たちは戦争の死者たちはなにでつながっているのだろう。

僕が、これまでの「戦争の死者は犠牲者だ、彼らの死に報いるためにも二度と戦争を繰り返さないようにしなければならない」という戦後民主主義的な考え方を欺瞞だと思うのは、ひとつは、橋爪さんが言うように、そこに戦争の死者への冒瀆に似た一方的な見方があるからですが、もうひとつは、そう言う彼らの言い方に、戦後へと生きのびた同時代者たちの自己欺瞞が隠されていると思うからです。戦前からこの戦争は侵略戦争だとみぬいて、内心であれ、これに批判的に対していた人びとは、ごくごく少数でした。他の大部分は、それこそ大部分の戦争の死者と同様、この戦争がどういう戦争であろうと、とにかく、負ければ国が滅びるという危機感に動かされて、この国の戦争努力に協力しようとしていたはずなんです。そうすると、生きのびた人びと、戦後、平和主義を信奉するようになった彼らも、戦争の死者と同様、戦争のときは間違っていた。そして戦後、その間違いに気づき、変わったということになる。彼らの「戦争の死者は犠牲者」という言い方は、戦争の死者の「間違い」とともに自分たちの「間違い」をもなかったことにする、都合のよい言い方になっているんです。でも、戦後の人間と戦争の死者をつなぐのは、両者がともに「国家にだまされた」無垢な存在だということではなく、両者がともに「間違った」有罪の責任で、だけどその「間違い」には動かしがたさがあるのではないかという点です。死者は意味づけることができないのですが、その意味つけられなさにかたちを与えるというのは、その「間違い」の動かしがたさで死者を遇するということではないか、と思っているのです。

戦後民主主義の論者たちは、ほぼ例外なくこの点をすっとばして、あたかも自分は彼岸の存在で、ずうっと平和主義者であったかのように、彼等戦争の犠牲者のためにも平和を、と論を立てた。また戦争中にこの戦争の性格をみぬいていた少数の人びとを、鶴見俊輔などを除くと、ほぼ全員、そのことの優位性にひそむ特権性を解体しないまま、そこから論を立てて、この「戦争の犠牲者」論にそのまま乗っかった。そこに戦後の平和論が終始一貫浅いものにとどまった理由がある。「

その点からいえば、この「間違い」の動かしがたさという点は、天皇評価でも重要な要因になる。天皇の責任として、第二部で論じたような戦時期の戦争責任というかたちでの問題よりも、戦後、昭和天皇が戦前の問題に一切されなかったということが僕には大きなことをして感じられてくる。自分のなかの戦前と戦後の関係を明らかにしなかったことに、戦後の日本国民統合の象徴という点で、ひっかからざるをえないのです。

橋爪 天皇が死者たちにどういう態度をとったとか、なにも言わなかったかったとかを、どうしてそんなに問題にしなければならないのだろうか。天皇というのは、そんなに仮託して考えるとうまくいく場所なんだろうか。
これまで述べたように、天皇は日本人のなかで特異点のような、特別な位置を占めていて、その責任を考えるにせよ、その人格や行為を考えるにせよ、目立つけれども、非常に考えにくい人なのです。それよりもむしろ普通の人間が普通に考えた場合どうなるか、というところで議論した方がいいように私には思える。普通の日本国民がこの300万の死者たちに対してどういう態度をとっていくかとか、どういう態度がとれなかったとか、そういうふうに考えるべきなのかとか、そういうことがすっきり解決付きさえすれば、天皇のことなんてどうだっていいじゃありませんか。むしろそのことを考えていくことの方が大切ではありませんか。
もうひとつ、加藤さんの議論で感じるのは、死者をうまく抽象していないということです。わたしが断じて正しいと言っているのは、出征した軍人が公民としての義務を果たしているという点であって、彼ら個々人の行動の何から何までただしいと言っているわけではありませんよ。何から何まで断じて正しい行動をする人間なんて、いるわけないじゃありませんか。出征をした後、中国やフィリピンの戦線に投入されて、非戦闘員をとらえて殺害したり、不法行為を行なったりしたかもしれない。それは、上官の命令によるのか、おぞましい戦場心理によるのか、本人の責任なのか知りません。しかし少なくとも、そんな場におかれてどのような非人間的なふるまいをするということは、その結果生きのびるにせよ、あるいは死亡するにせよ、本人にとっても不本意なはずで、哀れなことではありませんか。そうした行為の系列全体は、彼が公民としての義務に応え出征しなければ、生じないはずのことだった。彼がしなければ、他の誰かがせざるをえなかった。そういう彼にとっての義務でありコストである部分を、公民としての義務という側面へいわば射影して、抽象的にとり出しているわけです。300万の死者という場合、彼ら個々人の行動の個性や差異は相殺しあって捨象され、こういう側面が骨格としてとり出されることになるのだと思う。そしてその側面は、この前の戦争が侵略であるかどうかと無関係に、国際ルール違反であるかどうかと無関係に、戦後の私たちのいる場所と直結すると思うのです。
誤解のないように言っておけば、以上のように考えたからといって、侵略戦争の問題や戦時中の不法行為の問題が、不問に付されるわけではありません。むしろ、死者たちの死の意味を肯定的に受けとめることと、死者たちの行為を批判的に検証する作業とが、それではじめてきちんと両立するようになるはずなのです。

加藤 僕はそのように戦争の死者を抽象しません。またアジアの無辜の死者の存在はこういう抽象に抵抗すると思います。でも、この点を除けば、こういう出発点に立つことで、死者たちの死を肯定的に受けとめることと、その行為の批判的検証がはじめて両立する、という橋爪さんの趣旨に全面的に賛成です。

(終わり)

加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣「天皇の戦争責任」

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