過労死 際限ない「がんばり」②

職場に心のゆとりをもたらすためには、人員の面でも予算の面でも納期の面でも、もっとゆとりが必要である。また、仮に一人が失敗しても同僚なり上司なりがフォローできる体制にしておいて、失敗が許される職場の雰囲気をつくりだすことが大切である。

日本のが死ぬほど働き過ぎに陥ってしまう一因として、同僚や上司、取引先などに配慮をし過ぎることが挙げられる。「今日自分が休んだら、同僚の〇〇に迷惑をかけてしまう」「この仕事が出来なかったら、お世話になった上司の〇〇さんに申し訳ない」「この契約が成立しなかったら、取引先の〇〇さんに迷惑がかかる」などと考えてしまい、体調が悪いのに無理を重ねてしまうのである。

このような心情は、休むと自分への社内評価が落ちるという功利的な者とも、自分の仕事を完遂したいという自己信念からくるものとも異なり、他者との人間関係を配慮するヒューマンな気持ちから生ずるものである。この他者を慮る心情は、それ自体、社会生活をする上で大切な事柄であり、このチームワーク精神は日本経済の発展を支えてきた源であった。

だが、他者への配慮は、往々にして、労働者が休息をとるべきときにも仕事にかりたてる動機づけとなってしまう。過労死で亡くなった事例の調査をすると、この日無理をせずに休んでいれば助かったかもしれない、と悔やまれるケースがたくさんある。だから、私は、「過労死をしない方法は」と聞かれたときには、「義理を欠くこと」を勧めることにしている。心を鬼にしてでも「義理を欠く」気持ちがないと過労死を妨げないのが日本の職場の実態である。

こういうと、そのような個人の気持ちの持ち方に問題を還元するのは、職場の労務管理システムの矛盾を放置することにつながるとの批判的意見を受けることがある。このような意見に対しては、つぎの二点をもって回答としている。

一つは、人間のいのちと健康は、義理を守ることよりもはるかに尊い価値をもっていることを、私は強調しているのである。実は、この価値観のレベルで、日本には社会的な共通意識が必ずしも形成されていない。風邪をとおしてまでもみんなのために仕事をしたことが高く評価される風潮が、企業内だけでなく、社会全体に根強く残っている。言葉としては「いのちと健康ほど尊いものはない」と誰もが言うが、実際の場面では、健康を第一に行動すると「自分勝手」との批判受けてしまうことが多い。「義理を欠くこと」は、こうした社会意識を変えていく重要な実践である。

いま一つは、「義理を欠くこと」という行動を通じて、職場の中の矛盾を顕在化させ、職場改革への契機とすることができる。一人が大事な時に欠勤したことによって発生した職場の混乱は、義理を欠かれた側からの一時的反感を呼ぶかもしれない。だが、欠勤の真相を明らかにし、休息することの大切さ・緊急性を説明することによって、いかに人員と時間の余裕がない環境で仕事をしているのかを浮き彫りにすることができる。このことを通じて、もっとゆとりのある職場、いわば「義理を欠くことができる職場」をつくっていくステップにできるはずである。

バブル経済崩壊後のリストラが続く職場の中で、多くの労働者が、解雇される不安を抱きながら仕事を続けている。

失業率は1998年から2013年にかけて、およそ4~5%の間を推移し、中高年労働者だけでなく、若者の雇用もまた厳しい状況が続いている。97年に山一証券をはじめとした大企業が相次ぎ倒産し、それ以降、企業の規模・業種・老若男女を問わず誰もが職場を追われる可能性のある時代になった。安全地帯が亡くなったのである。

リストラによる中高年の労働者の解雇は、日本の終身雇用制が崩れ始めたものといわれているが、このことは労働者の企業への従属度を弱めることには必ずしもならず、むしろ逆に、強める方向に働いている。自らがリストラ解雇の対象にならないようにするため、以前にも増して企業に忠実に行動しているのが、大多数の労働者の現状ではないだろうか。

(中略)

こうした労働者の企業への精神的従属は、過重な労働を生み、精神的ストレスを増大させ、ひいては過労自殺を生みだす源となっている。ある意味では、失業するよりも、失業しないようにと必死で企業にしがみつくほうが苦しいのであり、そこでの極度の心身の疲労が、労働者の健康を蝕み、ついには死に追いやってしまうのである。

過労自殺にまで至った事例を調査すると、「そこまでして会社に残るために無理をしなくとも」と感ずることがある。日本の失業率は高くなったとはいえ、諸外国に比べればまだましな方である。日本の場合には、失業者数・失業率自体よりも、失業の増大が労働者の心にもたらしている恐怖感の方が、より深刻ともいえる。

このように日本の労働者が失業を恐れる背景には、失業による経済的な困難さがある。失業保険制度で、ある程度の生活保障が得られるとはいっても、ローンを抱えているような場合には、失業=自己破産というケースすら起こりうる。また、高齢者にとっては、いまの年金制度ではとても安心して老後を過ごせない。職場に残るものと去る者の経済的格差をもっと縮小し、公的機関による職業訓練制度を充実させるなど、失業者が路頭に迷うことのないような社会的システムを充実させることが、いま切実に求められている。競争社会の中では、セイフティネットを充実させることが不可欠であるとの議論が日本でも行われるようになって久しいが、セイフティネットは、働く者の心にゆとりをもたらすという意味でも、全労働者のために必要なことがらなのである。

人々が失業を恐れる背景には、失業者を見る社会の目もある。日本では、失業者=人生の落後者というイメージがつきまとい、そのような目で見られること自体がとても辛いことなのだ。定職を持っていない時期に、自宅周辺の住民の視線を気にして生活をしなければならない、もっと失業者が精神面でリラックスできるような社会環境をつくっていくことが、日本では求められている。


<了>

川人博 「過労自殺 第二版」」

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