宗教の事件 90 橋本治「宗教なんかこわくない!」

●麻原彰晃の話し方の不思議

果たして麻原彰晃は“権力者”になりたかったんだろうか?それとも“人気者”になりたかったんだろうか?あの人が時折見せる“子供のような笑い顔”からすると、後者のように思える。あの選挙戦が“マジなもの”だったとすると、あの人は、「あの選挙を通じて自分が“人気者”であることを確信したかった」という結論にしかならないと思う。すでにあの時点で、麻原彰晃は真理党の党首で、宗教法人オウム真理教の教祖だ。十分に“権力”は掌握している。すでに掌握している権力を「もっと!」というのだったら、あの選挙戦はもう少し違っていた者になっていただろう。あれは、既に“権力者”になっていたものが、「それだけじゃいやだ、ボクは“人気者”になりたい」というさらなる欲望をスタートさせたものだろう。
それが挫折した。「内部を従えて“権力者”にはなれても、でもその力は、外部では通用しない。自分は絶対に、外部の人気を集める“人気者”になれない」というのが、その挫折の中身だろう。「1990年総選挙の敗北以後、急速にオウム真理教は武装化への道を歩んでいく」というのが正しいのなら、それをさせる“憎悪”の正体はあるはずだ。そして、そんな“憎悪”があるのだとしたら、あの選挙戦から導き出されるものは、ただ一つである。「自分は、絶対に人気者になれない」・・・・・・これだけだろう。「そういう憎悪ですべてをスタートさせる人間がいるのか?」と言ったら、「そこにいるんだからしようがない」だろう・・・・・・。

あまり言いたくないことだが、「全盲ではない松本智津夫が全寮制の盲学校に行かされていた」ということは、とても大きなことかもしれない。しかもそこに、「障害者ということになれば、国から金が入る」という、彼自身の希望とは全く関係のない“家庭環境の貧しさ”がからんでいたとすると。

松本智津夫は、既にもう学校時代に“権力者”だったという。十分に体力があって、体格もよくて、しかも目が見えないわけではないのだから、そうなっても不思議はないだろう。がしかし、全盲ではない弱視の彼が、もう学校で権力を掌握して、どうなるのだろう?彼は、別にもう学校に行かなくてもすんでいたような人間で、そういう人間がもう学校で権力者になってもうれしいだろうか?いや、もう学校で暴力的になっていたというそのこと自体が、もしかしたら、「自分は間違ってここに閉じ込められている」ということの表れかもしれない・・・・・・。“全寮制”の盲学校の中でしか権力者になれない彼とオウム真理教の中でしか権力者になれない彼は、本来が一つのものなのではないかと思う。

彼は“自分に従う、自分とは条件の違う人間”だけではなくて“自分と同じ条件を持つ、自分と対等に接してくれる友達”というのを、きっと求めていたろうなと、私は勝手にも思ってしまう。

なんでそんなことを考えるのかというと、私には、あの麻原彰晃の“話し方”が気になってならないからだ。

あの人は、とても不思議な話し方をする。オウム真理教の“信者のためのテープがテレビで流されて、私はぞっとした。あれは、ただエンエンと続く“ひとりごと”である。「さァ、修行するぞ、修行するぞ修行するぞ」の、例のやつである。

あれは、人に修行を勧め、さらなる信仰の深みに誘い込んでいくアジテーションのテープである、それなのに、不思議なことに、すべての語尾が落ちている。「さァッ、修行するぞ!修行するぞッ!修行するぞッ!」と語尾が勢いよく上がらない。かえって逆に「さぁ 修行するぞ・・・・・・修行するぞ・・・・・・」と語尾が下がっている。それが早口でエンエンと続いていく。語尾が下がるんなら、語源に勢いがあるのかというと、そうでもない。「さァッ しゅぎょうするぞ」でもなく、「さァッ しゅぎょうするぞッ」でもなく、「さァッしゅぎょうするぞさァッしゅぎょうするぞ」という、不思議なイントネーションで続いて行く。

こういうイントネーションが熊本の方言にはあるのかと思って、麻原彰晃とそんなに年の違わない熊本出身の人間に尋ねてみたら、「確かに語尾は下がるけれども、ああいう喋り方にはならない」と、この不思議なイントネーションが熊本方言ではないことを証言してくれた。もちろんそんな方言があるわけはなくて、これはある種の人間に起こるようなことである。

他人に対して積極的に語りかけることを目的として、しかもイントネーションがこんなに尻下がりになる理由は、そんなにない。

まず第一の理由は、その相手が嫌いな時である。「話はしなくちゃなんないが、でもこんなやつに話したくない」と思っているとき、人間の話し方はこんなふうになる。仕事の最中に電話にでなきゃならなくなった私の喋り方は、基本的にこれである・・・・・・「なんだよ、うるせーな(電話なんかに出たくねーよ)」である。私の電話の無愛想は有名で、私はそれでいいんだが、しかし、まさか大切な信者のお客様に語りかけるテープで、それはないだろう。

この“語頭に力がなくて語尾も下がるような話し方”は、基本的に“一人でブツブツ言ってる時の話し方“である。だから、嫌いな相手に話をする時は、相手の存在を抹殺するような“ひとりごとにもなるが、これをもっと特殊な用途で使うと、“相手を自分の方に引き込む話し方”にもなる。なにしろ、聞き手の存在を認めないような話し方なんだから、この話を聞かされる方は大変だ。話のいちいちに、「なァに?なに?」と、身を乗り出すようにしなければ、相手の言ってることが理解出来ない。あえて高飛車に演じるならこの手もあるが、しかしこれは、相手に嫌われる可能性が非常に高い。これが有効になるになるのは、信者がたったひとりで、集中力を高めながら、じっとその声の録音されているテープに耳を傾けているようなときだけである。テープから流れる声は、自分がひとりで唱えなければならないような言葉を“ひとりごと”のようにして語りかけてくれる。これを聞く信者は、麻原尊師と一体になって、このテープを聞くことになる。いたって有効な話し方になるのだけれども、しかし私は、そうは思わない。「信者が尊師と“ひとりごと”を共有できる」というのは、ケガの功名の結果論で、「麻原尊師はそんな目的でこんな話し方をしているのではないだろう」と、私は思う。ほとんど直感で、そう思った。

私の答はこうである・・・・・・「これは、他人から一度もまともに扱われたことのない人間の話し方である」と。話をしていて、その相手が友達で、それで意見の一致をみてしまったら、その時「そうだよな!!」という相槌を打つ、人間の話し方の語尾が“うっかり下がってしまう”ということになるのは、自信がないからである。自信のない人間は、相手に話をしたくない人間と同じように、語尾が下がる。それを修正してくれるのは、「そんなこと気にしなくてもいいよ」という、友達の存在である。友達とか家族とか、そういう“話をする時にいちいち構えなくてもすむ相手”なら、語尾は下がらない。だから人間は、「外ではボソボソ喋っていても、うちに帰ってくるとエラソー」になったりする。「外ではエラソーに喋っていても、うちに帰ってくるとボソボソ」もあるけど。

どっちにしろ、人間は、対等になれる相手が存在して、初めて語尾が不必要に下がるという話し方を克服できる。だから、こんなにも語尾の下がる話し方をする人間なんか、普通はそんなにもいないのである。麻原彰晃のように、絶対服従の信者がいくらでもいる人がそんな話し方をしなければならないのは、とても不自然なことなのである。

だから一応は“信者を引き込むためのひとりごと作戦”という可能性は考えられる。しかし、やっぱり違った。テレビで“謎の盗聴テープというのが流されて、麻原彰晃の“普段の話し方”というのがオープンになってしまった。有名な、新実智光を「バカものがァ」と叱りつける“選挙の時の声”である。この語尾が下がっている、公然と「バカヤロー!」呼ばわりを出来る相手に対して、このイントネーションは、とってもヘンだ。「バカものがァ」の最後にある“が”自体が、公然と怒鳴りつけることを遠慮するためにつけられた保留の音だったりもする。この“が”があって、それで自然に語尾が下がる。この“が”は、“語尾を下げるためだけに必要な音符”のようなものなのだ。

なんでこんな話し方をするんだろう?

この人が普通の話し方をするのは、ニコニコ笑いながら人に対してる時だけだ。たとえば、「まず一万六千円をドブに捨てたと思って・・・・・・」と、オウム真理教への入会を勧める時とか。

この人は、腰の低い商人になる時だけ、語尾が落ちない。不必要な早口にもならない。オウム真理教に神聖法皇として君臨するこの人は、実は、人に対して高飛車になるような話し方ができない人なのだ・・・・・・私は大方の予想に反して、そのように結論する。

この人は、人と対等に話をするというシチュエイションに恵まれたことがない人なのだ。だから、語尾が下がる。だから、ニコニコ丁寧になれる。この人は、他人からまともに人間として相手にされたことがない人なのだ。この人は、他人と対等になったことがないのだ。この人にとっての他人との関係は、必ず上下の関係だったのだろう。そうとしか思えない、独特な話し方である。

この人にとって、“暴力で人を支配する”のは、簡単なことだったのだろう。それしか使用がないからそれをして、この人はちっともおもしろくなかっただろう。だからこの人は、きっと“みんなの人気者”になりたかったのだろう。あの有名な「ショショショ、ショーコー」の歌は、“もう自分が十分に人気者になってしまっている”という前提で作られた歌なんだろう。数々のオウムの歌の中で、あの歌だけがひときわ幼稚で、他と違っているのは、「選挙で当選間違いなし!」を確信しながら、喜々として作られたものだからだろう。その“夢”が破れて、彼は激怒した・・・・・・。

“幼稚”ということは、とんでもなく悲しい。


(つづく)


橋本治 「宗教なんかこわくない!」

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