野蛮人

「戦争に強いやつは野蛮人だ。」

戦争嫌いの僕らは、よくこう言って日本人を嘲る。けれども僕は、この戦争に強い日本人の大部分が労働者であることを思う時、一方にこの野蛮人を悲しむとともに、他方にまた、この野蛮人に多大の望みを嘱せざるを得ない。

国家のためということが、よしそれ自体において虚偽であるにせよまた真実であるにせよ、ともかくもこの思想と感情とによって行動する以上は、しかも国家の危急存亡に際しては、真に野蛮人の勇気をもってその敵に突進せねばならぬ。僕らに決してこの勇気そのものを嘲ることはできない。

国家は、国家自身の利益のために、労働者のこの勇気を、常に扇動する。しかし国家は、労働者が自己の利益のために自己の思想と自己の感情によってこの勇気を現すことを、常に障礙する。教育はあらゆる方面に階級制度を認めて、上長者には羊のごとく柔順なれと教える。宗教はあきらめを説く。そして警察と裁判とは、この勇気を敢行するものを、容赦なく牢獄に投ずる。

この事実は、国家の要求するところと、国民的の大多数たる労働者の要求するところと、その根底において相背反することを明示するものである。したがってまた、今日の国家組織そのものの中に根本的矛盾の存在することを明示するものである。そしてこの矛盾をあくまでも押し通そうとするのが、またそれを巧みに蔽い隠そうとするのが、いわゆる政治の根本義である。政治がこの前者に重きを置く時、多くはその国家の勃興期であり、後者に重きを置く時、多くはその衰亡期である。

さらに語を換えて言えば、国家は野蛮人の勇気によって建設され、またそれによって発達され、そしてついにそれを失うことによって滅亡に近づく。近世国家は新興階級なる紳士閥の野蛮人的勇気が、久しく泰平に馴れた封建政府の惰弱に打勝った結果、建設された。そして近世国家は、少なくともその勃興時代には、それ自体の中に含む矛盾を意に介することなく、常に野蛮人的勇気をもってその内敵に当った。内敵とは、近世国家における新興階級たる、平民もしくは労働者階級これである。しかしこの近世国家も、創業の時を隔つるにしたがって、漸次にその野蛮人的勇気を失ってきた。そしてその最初の兆候は、かのいわゆる社会政策の採用だった。

社会政策とは、国家が抽象的な教育や宗教によって自己の矛盾を蔽い尽くすことができなくなって、さらに新しく発明した具体的の欺瞞策である。しかしそれが単なる欺瞞策である間は、なお国家の隆盛を望み得よう。けれどもこの政策はすぐに譲歩に陥ってしまう。譲歩は堕落である。そしてこの堕落は、近世国家の主人たる紳士閥が、その内敵に対する野蛮人的勇気を失ったことを意味する。

日本の労働者は、国家のためにその国家の外敵と戦う時、常に目覚ましき野蛮人的勇気を発揮する。彼らの多くに取っては、国家のためということが、まだその思想と感情とを支配する「真実」であるからである。したがって彼らはまだ、その野蛮人的勇気を、彼らの真の敵に対して発揮することを知らない。彼らはその真の敵の所在を知らない。しかるに彼らの敵は、その野蛮人的勇気を労働者に揮うのに、今なおほとんど何らの容赦もない。

しかしいつまでこれが続くことであろうか。

大杉栄「野蛮人」1914年12月

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