たしかにわれわれは生まれながらにして

たしかにわれわれは生まれながらにして物事を正しく見る目をもっておる。しかし他方、われわれすべての人間のなかには馬鹿なことをしでかす心もひそんでおり、これが永久になくなることはない。われわれすべての人間のなかには欲求がひそんでおる。しかしその欲求が満たされるところはわれわれの外部なのだ。修道士たちの場合ですら欲求の成就は外部からやってくる。そのことを人は勘違いしがちです。夜、床につくとき、人は明日ふたたび目を覚ますだろうと考える。しかしだれもがいつかはこの推測に欺されるのです。親しい人との別離、信頼している人とのあいだに生じる深い溝、そういったものにもよく出会う。和解は希望であって確実なことではありません。涙なんていうものも、一種の化学反応で安堵感の流露なのです。涙はわれわれの神経の救いにはなるが、精神の救いにはならない。祈りも涙のようなもので、運命を変えるものではない。祈りは受け手がいない、というよりむしろ受け手は祈りを無視するのです。受け手は受けた祈りを際限ない記録簿のなかに、埃にまみれて埋もれさせてしまう。われわれは孤独のなかに立たされたままそういうことはなにも知らない。われわれはおのれの存在を証明するものはなにも持っていない。大悪党になるときはじめて、われわれは犯罪の束の間の陶酔感を味わうことができます。しかし、すべての人間にその資格が与えられているとしても、選び出されるのは少数に過ぎない。大盗賊や大殺戮者は少数しかいないのです。われわれ大衆はすべて、体内から聞こえてくる混乱した師匠の声に耳をそはだてる小心な弟子なのです。サタンへの道のりは神への道のりと同じくらい短い。わずか一、二歩の距離だが、そのときもわれわれは限られた素質という鏡を引き摺っておるのです。われわれは現にあるがままのわれわれなのです。われわれは乾ききった大地に滴った一滴の水ではない。われわれの父親たちもわれわれ同様、責任はなかった。われわれは現在という一瞬に立っており、そうせざるをえない。それがあるがままの状態なのです。歴史は起こってしまったことであり、天使の吹きならすラッパも時を呼び戻すことはできない。ここに女がいる。上の階段には男がいる。だれもこの二人を人間としての生へ呼び戻すことはできない。

ハンス・ヘニー・ヤーン「岸辺なき流れ」上巻p424

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