女たちが

うすうす、気づいていた。女たちが、なにか、おかしい、ということ。

言いたくないけど、フェミニズムと某大手新聞社系週刊誌に煽られた「女の自己実現イデオロギー」と、家事と子育てと人の面倒を見ることへの忌避。もちろん女をいじめたり、女に暴力をふるったり、女に都合の悪いことを全部押しつけたりしていいはずはない。どんなイデオロギーの持ち主だろうが、そんなことをする人は、単なる人でなしである。そういう話ではない。

近代社会がつくり上げた「公的」な部分、つまりは、政治とか経済とか、そういう部分で、選挙権を持ったり、経済活動に参加していくことは、もちろん大切なことである。しかし、だからといって、すべての女性が(実は、人間は、だが)その公的な部分で社会的評価を受けなければならないとか、社会的評価なしには生きている価値がないとか、そんなはずはないのだが、実は、みごとにそうなっている。

恋愛をして、男と一緒に住み始め、男と日々、暮らし始めた女がまず気にするのは「わたしはこの人と一緒に住んでいることでわたしらしさを失っているんじゃないかしら、わたしはわたしの人生を生きていなければならないのに、できてないんじゃないかしら、それができないようだったら、別れたほうがいいんだわ」ということであるらしい。

男と一緒に暮らし始めても、「わたしはわたしらしく」、つまりは、自分が金を儲けることが、自分が男とは関係ないところで評価を受けるとか、自分の趣味を生かして生き生きと人間関係をつくっていく、とか、そういうことができないと、「自分の存在価値はない」と思ってしまうらしい。

「わたしがわたしらしく」というのは、愛する人を支える、とか、好きな人のそばにいてうれしい、とか、この人と家族をつくっていくことが楽しくてたまらない、とか、誰かと一緒に住むことで、家族とか先祖が増えてうれしいな、とかいうような文脈では、決してないのだ。

「わたしがわたしらしく」生きていくというのは、金銭の受け取りを中心とする他人からの社会的評価のことなんである。実現する自己をもっていないといけないわけである。いわゆる「自己実現イデオロギー」。

そして男も女も、二人とも総合職とかバリバリ働いていた場合で、女性のほうが仕事を辞めてしまった場合、「わたしはがまんして仕事を辞めたのに、あなたのほうはずっとつづけていて、それは、ずるい」ということになるらしい。

どちらが辞めてもいいのだけど、と、男女で話し合っていたが、さあ、女のほうが譲歩して、自分の道をあきらめたから、その時点で、二人の間の「ポイント」は女性側についている、まあ、簡単にいえば、男の側が女に仕事を辞めさせた時点で「減点!」がつくらしい。

どう考えても、外で働かないで、仕事を辞めて家にいることになったら、そっちのほうが楽に決まっているのだが、「わたしのほうががまんして仕事を辞めているのだから、あなたがわたしに負い目を感じて当たり前、あなたがわたしに尽くして当たり前」と、どこをどう押せばそういう考えになるのか理解できないのだが、少なからぬケースでそうなっているらしい。

「家にいて孤立することが辛い」「社会と関わっていないことがストレス」って、みんなそういう言い方を受け入れていますが、なにかおかしいよ。満員電車に乗らないですむだけ、家にいられるっていいんじゃないのか。

いまどきの男性は、「優しくて、家事も平等にできて参画できるように」、という、その母親たちの願い(「呪い」と言いかえてもかまわないが)とともに育てられてきたから、仕事を辞めた妻に対して、実に優しい。

妻のいうように、「本当は仕事ができるきみは僕のために仕事を辞めなければいけなかったのだから」と、負い目に感じてせっせと会社から帰って掃除機をかけたり、お皿洗ったりするのである。ご苦労様なことである。

とにかく女性たちは仕事を辞めて家にいると、「損した」と感じているのである。

でもそれって、経済学の理論通りだなあ。仕事をしている女性たちはよい給料を得ているから家事や妊娠、出産、子育てによって失ってしまう「機会費用」が高い。そんなに多くの「えられるかもしれないカネ」を失っているから、機嫌が悪いのである。

ああ、わたしたちは、皆、ホモ・エコノミクス。

ノーベル経済学者をとったアマルティア・センは、従来の経済学が想定する自分の利益だけを考えて行動するようなホモ・エコノミクスを、合理的な愚か者、と呼び、人びとの行動は、利己的な動機に支えられているのではなくて、もっと倫理的に思考や道徳的な価値に動機づけられている存在だ、と言ったんですけどね・・・・・・。

そういう「機会費用」を失った機嫌の悪さが、家庭内ではどのような態度としてあらわれるかというと、まず、家事をやらない。「仕事や社会的評価をわたしはがまんして、家にいる。あなたは、それをあきらめないで、外で働き続けている。そんなの、ずるい。あなたは好きなことをやり続けている上、それ以上、わたしに家で、わたしはやりたくない家事をわたしにやれというの。そんなのひどい、私はやらない」と、まあ、こうなるのである。

だから、食事をつくらない。男の人が一日外で仕事をして帰ってきても、ご飯とか、できてない。「なんで、わたしがつくらなきゃいけないの?」。つくっても一円にもならないから、つくる必要ないんです。家が掃除してなくても平気。

子どもができるともっとエスカレートする。

家で子どもの世話だけをしている私は密室育児のストレスと社会に関われない不満でいっぱいで、子どもを虐待しかねない。だから会社であなたももっと子育てに参加しなければならない。会社に行く前に保育所に子どもを預けに行ってほしいし、ブリーフケースを置いたら、まずは子どもをお風呂に入れてほしい。わたしだけが損するなんて、フェアじゃないですから。

先日講演会においでくださっていた80代の女性が、「わたしの母は、男の人は家を出たら外に7人の敵がいるのだから、家に帰ったら心から安心できるようにしてあげなさいよ」と言われて育ったのだ、とおっしゃっていた。

会場の若いお母さんたちは、なんだかそんな言葉は、聞いたこともなくて、びっくりしているように見えた。わたしだってびっくりするくらいの言葉だったから。

家族の安寧への祈りと献身、は死語である。確かに、女たちの「銃後の祈り」が数多の男たちを国のためにあの戦争で死なせた。その反省から、戦後民主主義のもと、女たちは祈ること自体を捨ててしまった。滅私奉公と家族への献身は同義であると理解し、一人が見えないところでわたしが支える」ことがあらためて機会費用を減少させる、と考えるようになった。

悪いけどこういった態度がどれほど日本の男たちの足をひっぱってきたか、子どもたちをしんどくさせていった可能性があるか、もう、言うのも疲れるが、自戒をこめて言わねばならないのが、おせっかいおばさんの仕事かとも思う。

女たちよ、愛する力をとり戻そう。愛と祈りは女の仕事だ。

男は、わたしたちなしには幸せになれない。そして、わたしたちも男なしには幸せにはなれない。古今東西、ずっとそうだったし、これからもだいたい、そうである。

「対」の幸せが、やっぱり幸せの基本である。いつかみんなひとりになる、だから、「対」を大切にしなくていい、というわけでは、決してないはずである。


三砂ちずる 「女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言」

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