学校に行かない子どもたち

中沢新一
いまの子どもたちは一種のプチグノーシスをやっているんだと思います。「この世界、違うんです。こんなのいやなんです」と言っているわけですから。

河合隼雄
そうです。いや、ほんまにそうなんですよ。

中沢 これを生みだしているのはグノーシスの頃も現代も変わらない圧倒的な関係性です。そういう心を抱えた子供は孤独なクライアントですから。いろいろな意味のテロに走るしかなくなってしまう。

河合 そういう意味でいうと、「ノー」で一番わかりやすいのは「学校へ行かない」。

中沢 「学校へ行く」という答は、さっきの「ライオンは父親だ」という陳腐な理解にしかならない。

河合 誰もがずうっと常識だと思っていたんですよ、子どもは学校へ行くということは、それに対して「ノー」と言ったわけですから、あれはすごいことですよ。

中沢 いまそういう意味では、子どものなかにグノーシス派がぐんぐん増えているんじゃないかな。

河合 そうですよ、人間存在というか、現代社会に内在するもののなかから出てきている問題だと僕ら思うわけですが、初めのうちはそう考えない。だから理解し得る範囲内において悪い原因があるのだと、みんな思ったわけですよ。それで学校へ行かないのは、まず「本人が悪い」、その次に「頭が悪い」「学校が悪い」と、みんな悪者探しをずうっとやって来た。ところがどこにも悪者はいないということがようやくわかってきたわけです。だから対応の仕方も大変変わってきた。

中沢 でも、先生が子どものころは、学校へ行くのって楽しかったんじゃないですか。

河合 僕の頃はある程度そうでしたね。それを「学校へ行かない」なんていうことは考えられなかったですよ。たとえばよく言うんですが、当時、学校へも行かなかったという谷川俊太郎とかは天才的な人で、やはりパイオニアだった。

中沢 いろいろな条件に恵まれないと、なかなか実現できませんからね。

河合 できないですよ。僕はそれだけの自由度を持っていたんでしょうね。ぼくの場合は不思議に小さい時から、「何やらおかしい」と思う才能があったから、もう当たり前の世界に当たり前に入りながら、常にいろいろ小さい声で「ノーノー」というてたわけですけどね。

中沢 僕なんかも「ノーノー」といいつつ、結局、「のうのう」と学校にはいつづけて。しかも大学院までいましたから。人生の大半は学校ですごしたと言ってもいい。

河合 それからその「否定」が、青年のなかにはそのレベルが浅いまま「否定」に止まっている場合がある。引きこもりがそうですね。何しても面白くないわけですから。単位なんて取っても仕方ないでしょう。就職しても仕方ないでしょう。恋愛も仕方ない。つまり、全部「ノー」「ノー」「ノー」なんです、死ぬのも「ノー」。ただふわーっと生きている。

そういう完全に引きこもっている人に僕らがどうしてるかいうたら、ただ会ってるんですね。それで「あれも仕方ない」「これも仕方ない」というたら「うん、うん、」、「これも仕方ない」というたら「うん、うん」と言うてるわけです。そう言うとる人が「何か絵描いたろかなあ」とかなると、もういいんですね。「絵描くのだけは仕方あるんだ」と、僕らはその線でいくんですよ。だから、その人としてはそこに何かを肯定する道があるんですね。そこで彼らの「否定」を僕らが「否定」したり、「否定」を説いたりはしません。ただすうっと、生まれるのを待っているわけです。

河合 隼雄・中沢 新一「仏教が好き! 」

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