そもそもの死刑の意味とはなんですか

森達也
・・・・・・彼らが死ぬことを恐れていないのに死刑の意味はあるのだろうか、という藤井さんは悩んでいる。これを言い換えれば、彼らが死を恐れているのなら、死刑の意味はあるということになる。そんな煩悶を、いま藤井さんはしているわけですよね。ならば聞きたい。そもそもの死刑の意味とはなんですか。死刑は誰のためにあるのですか。何のためにあるのですか。
「そういう人間に対して効き目がないだろうか」と藤井さんはいま言ったけれど、いったいどんな効き目ですか。なんのための効き目ですか。抑止力という意味ですか。でも藤井さんは、死刑には抑止力がないことを認めていますよね。ならば「通用するのだろうか」と言ったけれど、この場合の通用は、どういう意味ですか。何がどうなったら、死刑は通用するのですか。
揚げ足取りのように取らないでほしい。僕は本当にわからない。だから教えてほしい。「同じ空気を吸いたくない」とか「一刻も早く消えてほしい」などの遺族の応報感情のために死刑があるのなら、死刑囚が死刑を望もうが恐れようが、執行すべきですよね。その人を一刻も早くこの世界から消すことが目的なのだから。あるいは悪いことをしたらこういう目にあうのだとの見せしめのために死刑があるのなら、これもやはり執行すべきですよね。だって一般の人は、死刑になりたいというその気持ちを、共有することはまずないのだから。
でも藤井さんは今、宅間のように「早く死刑にしてくれ」と言う死刑囚に対しては、死刑にしてよいのだろうかとのためらいが生れている。煩悶している。なぜなら死刑囚に与えられるものは、あくまで苦であって楽ではないということが、死刑の前提にあるからですよね。当然です。死刑は刑罰なのだから。楽であってはならない。苦でなければならない。
ならば死刑とは、死刑囚に苦痛を与えることを目的にした制度であるべきです。彼らが自らの死を恐れれば恐れるほど、死刑はより大きな意味を持つことになります。
じゃあなぜ嬲り殺しにしないのだろう。人権ですか。嬲り殺しは人権上の問題があるけれど、絞首刑は問題ないのですか。
「変わる可能性」と藤井さんは今言ったけれど、本当に変わってほしいのですか。存置を主張する人は、「死刑が確定したことで深く改悛する人もいる」とよく言うけれど、深く改悛した死刑囚は、心安らかに処刑されるかもしれないですよ。それでいいのですか。改悛させていいのですか。かつて教誨師から、一人を殺してから深く改悛し、その後にキリスト教徒になり、処刑の日には「お先に行ってきます」とにこにこと微笑みながら死んでいった死刑囚の話を聞きました。『死刑』に書いています。でもそれでいいのだろうか。苦痛を与えなくていいのだろうか。だって刑罰ですよ。苦を与えなければいけないのに、にこにこと微笑みながら殺されてよいのですか。改悛させてよいのですか。苦痛を与えなくてよいのですか。彼は何のために、誰のために殺されねばならないのですか。
僕にはわからない。本当にわからない。だから教えてほしい。死刑という制度はあるべきなのだと主張する人に、こんなこともわからないのかと教えてほしい。死刑になりたいからとの理由で人を殺して、処刑の日にはやっと死ねると大喜びする死刑囚がもし本当にいるのなら、そしてこんなやつを死刑にする意味があるのだろうかと悩むのなら、深く改悛して自分は処刑されて当然だとして死んでゆく人と、いったい何が違うのですか。彼らを殺す意味はどこにあるのですか。
・・・・・・いずれにせよ僕は、死刑にしてくれと嘯く彼らから、透徹したニヒリズムよりもむしろ、痩せ我慢的な部分を感じてしまう。必死に唾を吐きながら周囲に毒づいているような気配を感知してしまう。ならば回路を与えたい。生きることの意味を気づかせたいと思います。
・・・・・・死刑は特異点です。まさしくビッグバンと同じように、その特異点においては、ほとんどの法則が成り立たない。何一つ断定できない。犯罪抑止の効果がある場合もあれば、逆に働く場合もある。死刑があるから再犯を思いとどまったという人もいれば、自首した人もいる。でも死刑になるために人を殺したという人もいる、死刑が確定してから反省したという人もいるかもしれない。でも死刑が確定したから自暴自棄になって反省できなくなる場合もあるかもしれない。法則性がない。見事にない。
つまり差異化できない。当たり前です。命を奪うのだから。ならばそれはシステムにすべきではない。命とは法やシステムで規定されるようなものではない。

藤井誠二
死刑を恐れて、おこなったことを悔いてほしい。死刑という罰によって人間が変わることができる場合もある、という願いのようなものです。そんなこと必要もないし、期待もしていないという遺族ももちろん多いですが……。きっと答えになっていないでしょうね。しかし、多くの殺人事件の遺族の方々から聞いてきたことは、死刑によって改心しようが、苦痛を感じようが感じまいが加害者の命とひきかえに通過点として「納得」することで意味があるのだと思う。遺族は殺されたものの尊厳を高めてほしいと思っていて、刑事司法の参加から、死刑を含めた量刑や、贖罪の方法など、さまざまなレベルでそれを「納得」に近づけていくしかないと思っています。ですから、法やシステムで決めるしかないのです。だから被害者等基本法も定められ、基本計画でこと細かく決められた。こと細かく決めすぎるという融通がきかなくなるという側面もあるけれど。
イタリアで終身刑が絶望的だから死刑にしてくれと死刑囚たちが訴えたというニュースがありましたが、どちらが残酷だとかいうのは意見があるでしょう。でも刑罰がある限り、現時点での集約はせねばなりませんし、被害者の側からみれば死刑にしてほしいのに無期懲役になった場合はもう泣き寝入りするしかないわけで、ぼくはそういう遺族をいやというほど見てきました。
死刑と終身刑でどっちが抑止力があるない、残酷かどうかという外部の議論はたしかにあるけど、被害者からみたら答えは出ています。その差は絶望的なぐらいものすごい差なのはわかりますよね?

森 それはわかります。……正確に言えば、わかるような気がする。被害者の視点からは、当然そうだろうと思います。

藤井 死刑を悪とする原理主義的な短絡さが、死刑制度があるから犯罪が起きるというロジックをつくる。図式が本当にそうであれば、死刑をなくしてしまったら先にあげた他者を巻き込む破滅型の凶悪犯罪はゼロになるわけで、それこそ被害者が望んでいる社会なわけだからそうしてほしいですよ。
死刑憎しのあまり、あまりにもそういうふうに単純化しちゃうとますます世論から離れられると思うけど。

森 死刑制度があるから犯罪が起きるというロジックを声高にいう人は、実のところそれほどいないと思いますよ。死刑制度があるから犯罪が起きるというロジックが単純だとするなら、死刑制度によって犯罪は抑止されているとのロジックだった単純です。しかもこちらは虚妄ですらある。
特に死刑については、二元化は絶対に意味がない。死刑をなくせば犯罪はなくなるとか、死刑があるから犯罪は抑止されているとか、そんなわかりやすい構図を、死刑は内側から常に無効化する。それは当たり前のことで、命の領域だからです。生きるということ、殺すということ、殺されるということ。そこには二元的なわかりやすい要素など入り込むはずはない。さっきも言ったけれど冤罪についても同様です。冤罪があるから死刑はあってがならないで止まるなら、命があまりに軽すぎる。冤罪がたとえなくても、僕は死刑を認めない。

藤井 冤罪は国家による犯罪なわけだから、要するに冤罪を受けた人間は被害者に転じるわけです。
被害者遺族は話していると冤罪はすごく敏感です。なぜかというと、家族が殺害された人の場合はほとんどまず身内が第一容疑者として疑われて追及されたり、何日も取り調べを受ける体験をしているし、警察や検察からぞんざいな扱いを受けたとか、そういうどこか捜査機関を信用したいのだけど信用しないところもあるわけです、捜査機関と被害者は所々でタッグを組むけれど、世の中で思われているような一体ではないです。必ずしも実際は。
そうした捜査の過程で捜査機関から嫌な思いをさせられることも間々あります。それは「殺された側の論理」に具体例をいくつか書きました。和歌山カレー事件の被害者の遺族のなかでも、本当に林眞須美さんがやったのかどうかで複雑な思いを残したままです。

森 僕はそこに自分の論点を置かないけれど、でも冤罪というリスクはどうしたら軽減するのかとの考察は必要です。取り調べの可視化とか、代用監獄の廃止とか、何といっても再審制度の整備とか、システムとしてできることはたくさんある。ならばそれくらいは最低限やれよとおもう。

藤井 被害者は事実を知って納得したい。なぜ冤罪が殺されなくてはならなかったのか。それが一審であろうが、再審請求のなかであきらかになろうが待ち続けなきゃならないという現実があります。そういう意味では裁判員制度のあまりのスピード化が事実を簡略化しすぎて、「なぜ殺されたのか」という事実関係がおろそかになる懸念があります。
日本の捜査というのは自白偏重型というのが最大の欠点であることは、死刑を求める犯罪被害者の遺族の多くがわかっていて、死刑事件の冤罪の多くはそこに原因があることも知っています。
冤罪は「憎悪する対象」を突然消えさせることになるわけで、冤罪は疑われた当事者が最も被害者ですが、被害者にとってもいままでの時間はなんだったのだというショックを受けることになります。
そういう意味でも操作の失敗はあってはならず、可視化に向けたあらゆるシステムはつくらなきゃならない。死刑事件じゃなくても、さいきんでもこれだけ冤罪事件があるのに、可視化に反対している捜査側はいったい何を根拠にして自分たちはすべて正しいと思い込んでいるのか、恥を知れと言いたい。

森 まったく同感です。彼らにとっては組織防衛であったり保身であったり、場合によっては出世のステップのレベルで、どれほど多くの人が傷ついたり殺されたりしているのか、それを本当に実感していないとしか思えない。取り調べは容疑者との人間関係が大事だから可視化には賛成できないなど、よく言えたものだと思う。

森達也・藤井誠二「死刑のある国ニッポン」

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