天皇の問題・戦争の問題

竹田 独断だけれど、いま僕が思っていることを言うと、加藤さんとしては、いま普通の人間が進歩か保守かというような枠ではなくて国家の問題を考えるんだったら、たとえば「天皇の人間性」とか「天皇のモラル」というようなものを考えてみたらどうか、と言っているのではないか。それはひとつの入り口であるから、そこを出発点にしたらどうかと。つまり、いきなりレフトがいいか、保守がいいか、あるいは民主主義がいいか、というのは、実はある意味で遠い考え方だ。だからむしろ、間違った戦争をしてどこかすっきりしないままで生きているこの国のあり方とか、その戦争責任とかをうまく考えるには、「天皇のモラル」ということを考えてみると、一般の人にとってはいい入り口になるんじゃないかと。

というのは、どういえばいいか、ようするに、いま若い人は大学生くらいになって、ほとんど突然のように、日本の国は昔、実はとんでもない悪い戦争をして、いま天皇はそのひどい戦争の責任者で、ほんとうは当然罰せられたり、天皇制を廃止になるところだったが、アメリカの占領策で生きのびてしまった、というような像を与えられるわけですね。これに対して、いや天皇はわれわれ日本人の心のよりどころで、これを畏敬し守ることこそ、われわれが日本という自分の国を愛する気持ちの原点になる、天皇に戦争責任をなにもかも帰して事たれりとするような考え方があるが事実は全然そうではない、というような考え方にも出会う。で、これを自分なりに判断しようとするけれど、なかなかむずかしいことがわかる。なぜかというと、この革新と保守の主張や解釈の土台になっているのは、一方が、この社会は基本的に矛盾だらけの善くない社会なので、どういう仕方で根本的に変えないといけない、という社会制度であり、一方は、おそらく、なにか積極的な内実というより、革新派の社会感度の反動としてできているもので、日本の戦後思想はこの社会を否定するようなことばかり言っていたけど、そんな馬鹿なことはなくて、むしろいまの日本人がこの国を、自分が属する共同社会というものを大事に思う心が欠けているということ、そういう心がいつのまにか失われてしまったことこそが、まさしく現代社会のいろんな矛盾を呼んでいる元凶なのだ、という考えですね。ところがいまの若い人にとって、この社会が根本的に否定すべきものか、あるいは国を思う心こそが必要なのか、というようなことは、まず決めがたいことです。ここにはこの国を否認するか、愛するか、という二者択一があるんだけれど、いまの人にとってそういう二者択一は、自分たちが現在感じている社会や時代の問題のかたちに少しも相関していない。だから、さあ君、天皇の戦争責任をどう思いますか、とか従軍慰安婦をどう思いますか、とかいわれると、ううー、って苦しい選択に迫られるわけ。ダブルバインド状態になってしまうんですね。
これは昔僕が学生のとき、在日朝鮮人の知識人から、「そもそも君は朝鮮民族の一員として生きるか、それとも日本人に同化して裏切り者として生きるか」、というかたちで迫られていたのとそっくりでなので、けっこう苦しさがわかる。ううー、ってなっちゃうんですね。やっぱり。だいたい、いまの人は大学生になるまでに、この世の中はいろいろな問題や矛盾がある、ということはもちろん感じている。しかし、この社会自体を否定すべきと感じているかというと、決してそこまではいかない。いまの社会におき換えるべきはっきりとした代案がないからですね。そこは僕らの学生時代と大いに違うところだと思う。つまり、社会批判の言説はいたるところにあるけれど、社会変革の具体的なモデルや展望はどこにもない。この社会の特定の階級が悪くて、一方に虐げられている広汎な人々がいる、というような明確な像があるわけでもない。なにがわるいのかなかなかはっきりしない。だから、政治家が悪いとか学校が悪いとか、警察が悪い、とか時代が悪い、とかいう個別的なイメージがとびかうことになる。ともあれ、そういう像は不満や不全感の個別的な受け皿にはなるが、この社会自体への明確な否定ということにならない。ところで、戦争とか、天皇の責任とかいう問題になると、「君はこの社会に対してイエスと言いますか、それともノーですか」という仕組みで態度決定を問われている、ということは漠然と感じる。そこでどう考えればいいかがすっきりしない。僕は、大学でよく見るわけだけど、進歩派の先生の講義を聴くと、あ―なるほど、日本はこんなひどい国だったんだ、天皇というのはこんな悪いヤツだったんだ、と思いながら、でもいったいどう考えればいいんだ、というので悩むことになる、そういう学生がたくさんいるわけです。

橋爪さんは、戦争とか天皇の問題について自分なりの考えをきちんともたないような学生がいるとしたら、その人はどんなことをいっても聞くに堪えるような意見は期待できない、という説だけれど、僕なら、そういう頼りない学生でも擁護する。少し前に加藤さんが言ってたと思うけど、湾岸戦争でも、慰安部問題でも、フェミニズムでも、いまの学生に対してどういう問いかけになってるかというと、いきなりボルテージを上げられちゃう。一階にマックがあって気軽に入っていったら、いきなり二階にあげられて、はい君は、純和風料理でいきますか、それとも正統フランス料理にしますか、どっちかはっきり決めてください、みたいになってるわけです。でもはっきりした態度決定なんて簡単にできない。それがいまの学生の一般条件だと思う。おまけにそれが自分の国の過去の、なんだかすっきりしない「戦争」に結びついている。これは日本だけでなく、ドイツやイタリアなどの後発近代国家でも、若者にとって自分たちの国の「過去」について不可避的につきまとっている「すっきりしなさ」だと思う。ところがそれは、大人たちの罪障感に後押しされ、だいたいさっき言ったような重々しい二者択一的な問いになって青年に現れる。この入り口からは、戦争の罪を認めてどこまでも恥じ入る、とするか、その反動で、そんな悪いことばかりでもなかった、という考え以外になかなか出られない。

ちょっと司会のくせに長くなってしまうけれど、ひとこと言いたいことがあるんです。ここまでお二人の議論をずっと聞いてきて感じていたのは、正直いうと、こりゃまずい、なんだか話がますます複雑、精緻、膨大になってきて、これではまるで、これまでの知識人の実証議論と同じような感じになっちゃう恐れがあるぞと。もちろん話の中身は今までのものと全然違っている。でもその違いをきちんと読者にわかってもらいたい。つまり、これまでの議論ではなんだかぴたりとこない人たちに、なるほどこれなら天皇の問題も戦争の問題もよくわかる、という切り口になってほしいということですね。第三者的にいい気なことをいわせていただくと。
それでやっとさっきの続きにたどりついたんだけれど、加藤さんの論点を僕なりにいえば、つまり、「天皇のモラル」というものを考えてみたらどうか、と。あくまでこれは僕の独断で、聞いているうちに思いついたのだけど、たとえば、君が天皇の立場にいたとする。かつて法制度としては実はそれほどではないとしても、一応、現人神として君臨し、まあ、後発近代のふらふらして一歩間違えると先進列強にのみ込まれてしまうような日本の命運を引き受けて、それなりに頑張って色々考えて第二次大戦をやった。ところが武運つたなく日本は徹底的に負けてしまった。それどころか、戦勝国から、君たちはひどい侵略戦争をやっていた、としてその証拠をいろいろつきつけられる。こりゃ駄目だ、それなりに責任をとらなきゃいけないかも、とそれなりの腹をくくっていたら、どういうわけか、戦後も天皇でいてよろしい、その代わり象徴天皇である、ということになった。まあそういう流れのなかで、君が天皇であるとして、自分のあり方のモラルとしてどう考えるかとイメージしてみる、これを逆にいうと、こういう天皇であれば、君は、同じ国の一員として、昔の現人神からいつのまにか象徴天皇になってずっと昭和の生きのびた天皇という存在と折り合いをつけられるか。そう考えてみる。この天皇が人間として、そのモラルとどういう存在であれば、まあ象徴天皇制もいまのところしようがないなと考えられるか、またどういう存在であれば、こんなものはやっぱり許せない、ということになるか。そういうところから考えてみる手がある。自分の命令ということで(そういうタテマエで)たくさんの死者が出た。これは昔の国家体制のなかでそうだったわけだけど、その君主がそのまま、戦後の平和国家日本の象徴としてずっと存在している。そのとき、その死者に対して彼がどう信じるか、そのことを考えてみる。そのことはまた当然、自分の国が侵略したことで生じたたくさんの死者についてどう考えるか、ということに自然につながる。そんな入り口で考えると、自分の国がしてしまったことについて、ある自分なりのイメージをもてる。またこの国が今後どういう方向に進むべきかについて、自分なりの像をもてるのではないか。つまり、そういう入り口の方が、いまあるこの社会を是認すか、否定するか、という二者択一ではない仕方で、自分と自分の国について考えられるのではないか。加藤さんの問題の立て方は、いうならばまあそんな提示の仕方ではないか、と感じたわけです。
それで、長く言わせてもらったついでに、人の考えのまとめばっかりやってるとなんだか元気が出ないので、自分の意見をできるだけ簡潔に言ってみたいと思います。僕としては、加藤さんの感度はかなり理解できるという気持ちがある。僕は自分では批評家加藤典洋のそうとうよい理解者じゃないかと思っている。つまり、そこにはいつも文学的感度からのつきつめということがある。僕もいちおう戦後思想や戦後批評の世界のなかにいたので、こんなかたちで問題を提出しないといままでの枠組みは動かしがたいという加藤さんのモチーフは、祖手も共有できる。文学というものについての感度でもそうです。だから司会役とはいうものの、それほど中立的にはいられなくて、少し気がひけるが、どちらかというと加藤典洋よりに立っている気がする。ただ、加藤さんの提起自身はもちろん優れたもので多くのことに共感が動くが、若い人が国家や戦争の問題を理解するには、そうとう問題的のかたちが入り組んでいるという感じもする。僕としては、もう少しシンプルなかたちで若い人に問題提起ができないかな、という気持ちがある。
実をいうと、僕は今までの経験から、天皇のことをあれこれ考えるのは、もうやめにしたらどうだろうか、という感覚がずっとどこかにあるんですね。それをあえて言うと、昔カントが、純粋理性のアンチノミー(二律背反・矛盾)という言い方で、それまでのスコラ哲学の問題設定、つまり「神」ははいるかいないか、いるとしたらどういう「本質」で存在するか、その場合に「自由」ということはどう理解できるのか、等々いわゆる「形而上学」的な哲学の問いを禁止した、そのことが思い浮かぶわけです。問題の形を思い切って変えればどうだろうか。天皇問題や責任問題を詳しくやるとなると、どうしても、歴史事実やその実証性に踏み込んでいかないといけない。するとどうしても、学者的な知識勝ちみたいなことになってくる面がある。そういうので内容な問題設定はないだろうか、というのが僕の秘かなモチーフで、いまでもそれはずっと考えている。そういう点からいうと、橋爪さんの問題提起の基本形は、ある意味でシンプルなんですね。話としては今日はえらく入り組んじゃっているけれど。これも独断だけれど、つまり、われわれはいわば「天皇問題形而上学」に入りこんでしまっている。もうそれは法制上の責任ということだけで考えた方がいい。つまり、いまかこの戦争を考えるとして、われわれとしては、民主主義、共和制以外の考え方で社会や国家の妥当性を考えることはもはやできない。かつては、当然、社会主義という選択肢があったけど、いまやそれはとれない。であるとすれば、共和制、民主主義の立場で進んでいくということをむしろはっきり選んで、その軸から戦争も天皇の責任のことも考えればいいのではないか・橋爪さんの議論を僕がそういうものとして聞いた。
で、僕の考えですが、僕は加藤さんが戦争や天皇問題に深くこだわるその理由もよくわかるつもりです。ただ自分としては、いわば文学的な入り口だけでなく、もっと率直に「社会」とは何か、という問いをまっすぐに立ててみたらどうだろうか、と考えている。これはいわば近代哲学者の方法です。この社会を否定すべきか、それとも是認して矛盾に満ちた資本主義に加担するか、この二者択一は、僕のなかではスコラ哲学的な形而上問題設定なんですね。つまり、そこには生きている人間の実質的な困難がぜんぜん表現されていない。ただ論理的にだけ成立しているような問いで、若い人が自分と社会の関係をそこでしっかり問えるようなかたちになっていない。それは、アキレスは亀にけっして追いつけないはずなのにどうして追いついてしまうのか、というゼノンの問いと同じように、仮象の(レトリカル・クエスチョン)です。近代哲学は、スコラ哲学が思想的には死にかけたとき、その形而上学を論駁するかわりに、もういちど一からはじめて問いをまっすぐにたてなおした。自然とはなにか、社会とはなにか、人間とはなにか」です。神の存在本質はなにかとか、どういう信仰が真の信仰かという問いは、まったく捨ててしまった。僕としては、自分なりにそういう問いが立てられないかと思っています。

でも、ともあれ、われわれのそれぞれの問題の立て方は、各々のかたちでいわば「進歩/保守」というスコラ哲学の「形而上学」をどう無効化するか、というモチーフで一致していると思います。ここまでけっこう議論が入り組んだけど、少なくともそのことははっきりしているというのが僕の言いたかったことです。ええ、また司会役がだいぶ越権的にかつ感情的にしゃべってしまったけれど、そういうことで、またそれぞれの論点を展開してください。

加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣「天皇の戦争責任」

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