分極化②

農業と家畜による耕作の導入によって、家父長制的支配とある程度の力の集中が可能になった。この段階では、たくさんの奴隷の力を一人の人間の支配のもとにおくために、政治的手段を講じることができたのである。宗教とイデオロギーと鞭とが支配の主な手段であった。しかし支配できた力の総量は小さかった。今日正常なものに思える力の集中は、一世紀前でさえ想像もできなかったのである。

現代社会においては、エネルギー変換はすべての人間をあわせた肉体的力能を凌駕している。人力の機械力に対する比率は、中国で一対十五であり、アメリカでは一対三百である。スイッチは鞭がなしえたよりずっと効果的に、この力に対する管理をひとところに集中する。動力の投入に対する管理権の社会的な分配は、根本的に変えられてしまった。資本が効果的な変化を生み出す力を意味しているとしても、力のインフレーションはすでに大部分の人々を貧民にひきさげてしまったのである。

道具が大きなものになるにつれて、操作する能力をもつものの数は減少する。クレーンを操作することができるものは手押し一輪車を動かせるものよりつねに少ない。道具が効率的になるにつれて、希少な資源のより多くがその操り手の自由になる。グヮテマラの建設現場では、技師だけが自分のトレーラーに空調設備をつけている。彼はまた、自分の時間が貴重だとみなされているので、首都へ行くにも飛行機でなければならない唯一の人間であり、彼の下す決定は重要と思われているので、その決定が短波送信機で送られる唯一の人間である。もちろん彼は、税金から最大額をひとり占めし、それを用いて学位を取得することによって、彼の特権を手に入れたのである。隊列を組んで働くインディオは、自分とスペイン語のわかる現場監督とのあいだに存在する特権の相対的な差の増大に気づくことはないが、学校へ行くことは行ったが卒業はしなかった測量士や製図工は、これまでなかった鋭敏なしかたで、自分の一族からの嫉妬と疎隔を感じとっている。彼らの相対的な貧しさは、効率を上げよという上役の要求によって悪化させられている。

以前は、道具が今日のような力能にまで近づいたことは一度もなかった。道具が少数のエリートの思うままになるように統合されたことも一度もなかった。王侯といえども、行政幹部や会社重役が生産増大のための奉仕を求めるときのように、さしたる抵抗を受けることもなく王権神授説を主張できたわけではなかった。ロシア国民は、自国の科学者の時間を節約してくれるというので、超音速輸送機関を正当化している。高速輸送、広い集配帯のコミュニケーション、特殊専門化された建国記念日維持、無制限の官僚主義的援助はすべて、もっとも高度に資本化された人々を最大限に活用するための必要条件として説明される。

巨大な道具で装備された社会は、大多数のものがもっとも高価な特権のひとそろえを要求することをふせぐ多種多様の装置に頼らねばならない。こういう特権のひとそろえはもっとも生産的な個人たちのためにとっておかねばならないのだ。ある人の生産性を計るもっとも権威あるやりかたは、その人の教育消費を値段札で表示することである。ある人の知識資本が大きければ大きいほど、彼が“くだす(make)”決定の社会的価値が大きいし、産業的産出物のレベルの高いひとそろえを請求する権利もいっそう正当なものになる。教育による資格証明の正当性が崩れる場合は、きまってほかのもっと原始的な形式の差別が、あらためて重要にみえてくる。第三世界に生れたとか、黒人だとか、女であるとか、よくない集団や党派に属しているとか、正式の一連のテストに合格していないという理由で、人々は労働力にして価値が少ないと判定される。そういう状況を背景として少数者運動が増加しているが、それぞれの運動は自分の分け前を要求しており、自分自身の意図によって裏をかかれる運命にある。

様々な改装制度が、より少数でより大きい企業体にひろがるにつれてそびえたち、複合化しなければならない。社会的にぬきんでた職務につくことは、膨張する産業のもっとも切望され競りあわれる産物である。学歴がないことは、性や肌の色や特殊な宗派と重なって、たいていの人々を低い地位におしとどめている。女性や黒人や宗教的非正統派によって少数派はせいぜい、メンバーのうちのいくらかが学校を出て高くつく職業につくようにすることに成功するだけである。同一職務に対して同一賃銀を獲得すると、彼らは勝利を宣言する。皮肉なことにこういう運動は、不平等に等級づけられた仕事は必要であり、高くそそりたつ階層性は平等主義的な社会が要求するものを生産するのに必要であるという考えを強化する。それなりの学校教育を受けると、黒人のボーイは自分が黒人弁護士でないことについて自分を責めるようになる。同時に学校教育は、結局は社会的ダイナマイトとして作用することになる、新しい強度の欲求不満をひきおこすのである。

少数派の求めるものが消費における分け前や、生産のピラミッドにおける平等な地位や、支配できるはずもない道具の名目的な支配における平等な権能であるかぎり、彼らの組織が今日求めている目的が何かということは重要ではない。少数派が成長志向の社会内での自分の取り分をふやすために行動するかぎり、その最終的結果は成員の大部分がより鋭い劣等感を味わうことにしかなるまい。

現行の諸制度に関する管理権を求める運動は制度にあらためて正当性を付与し、さらにまた制度の矛盾をいっそう激化する。管理における変化は革命ではない。労働者や婦人、あるいは黒人や若者が管理権を分けもったとしても、彼らが管理すべく要求している対象が産業主義的法人組織体であるかぎり、社会を再構築することにはならない。そういう変化はせいぜい、産業主義的生産様式を管理する新たな方式でしかない。産業主義的生産様式はこういう変更のおかげでその根底を問われぬままに存続する。よりふつうには、こういう変化は現状に対する専門職の反乱である。それは管理を拡大し、さらにはそれよりも速い労働の地位をひきさげる。管理職のために新しく机が設けられるということは通常、ある企業で生産がより資本集約的になることであり、いわゆる半失業状態を社会のどこかほかのところで生みだすことである。大多数のものは生産能力をいっそう喪失し、少数のものは自らの特権を防衛するための新たな理由づけと武器を探し求める。

低消費者と半失業者という新しい階級は、産業主義的進歩の避けがたい副産物のひとつである。団結することによって彼らは自分たちに共通の苦境に気づくようになる。今日、はっきりとものが言えるようになった少数派は、多数派のもつリーダーシップをよこせとしばしば要求しつつ、平等な処遇を求めている。いつの日か彼らが、平等な賃金よりも平等な仕事を、産出の平等よりも投入の平等を求めるようになるならば、彼らは社会の再構築のかなめとなることができるのに、たとえばあらゆる人々が差別なしに平等な仕事を行うという要求に到達するような、強力な女性運動が存在するとしたら、産業主義社会はとうていそれに抵抗はできないはずなのだ。女性はあらゆる階級と人種から成り立っている。彼女らの日常の仕事の大部分は、非産業主義的なやりかたでなされている。産業化になじまない日常の仕事を行うために彼女らが存在しているからこそ、産業主義的社会は存続できるのだ。北米大陸が北米の女性を産業になじまない雑多な家事に使用しなくなることを想像するよりも、南米の低産業化を収奪するのをやめることを想像するほうが、よっぽどやさしい。産業主義的な効率という基準によって支配されている社会では、家事労働は非人間的で価値の低いものにされてしまう。形式だけの産業的地位をあてがわれるならば、家事労働はいま以上にたえがたいものになる。もしも女性たちが私たちに、ただひとつの生産様式が支配的になれば社会はもはや存続しえないということをいやおうなく認めさせれば、これ以上の産業の拡大は停止させられるはずなのだ。存続可能な社会であればどんな社会にだって、二つとはいわずいくつかの、ひとしく価値があり威信がありかつ重要な生産様式が共存しているべきだという、有効な認識がえられるならば、産業の拡大を抑制することは難事ではなかろう。もしも女性が、いまは男によって不法に占有されている巨大で膨張的な道具に対する平等な権利を要求するかわりに、あらゆる人々にとって平等に創造的な仕事を獲得するなら、成長しストップするであろうのに。

イヴァン・イリイチ「コンヴィヴィアリティのための道具」

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