夏目漱石「坑夫」 縁も由緒(ゆかり)もない
その内同じ車室に乗っていたものが二三人立ち上がる。外からも二三人這入って来る。どこへ陣取ろうかという眼附きできょろきょろするのと、忘れものじゃないかという顔附きでうろうろするのと、それから何の用もないのに姿勢を更(か)えて窓へ首を出したり、欠伸をしたりするのと、が一度に合併して、凡て同様の状態に世の中を崩し始めてきた、自分は自分の周囲のものが、悉く活動しかけるのを自覚していた。自覚すると共に、自分は普通の人間と違って、みんなが活動する時分でさえ、他(ひと)に釣り込まれて気分が動いて来ないよう仲間外れだと考えた。袖が触(す)れ違って、膝を突き合せていながらも、魂だけはまるで縁も由緒(ゆかり)もない、他界から迷い込んだ幽霊の様な気持であった。今までは、どうか、こうか、人並に調子を取って来たのが汽車が留まるや否や、世間は急に陽気になって上へ騰(あが)る。自分は急に陰気になって下へ降(さが)る。到底交際(つきあい)は出来ないんだと思うと、脊中(せなか)と胸の厚さがしゅうと減って、臓腑は薄っぺらな一枚の紙の様に圧しつけられる。途端に魂だけが地面の下へ抜け出しちまった。
夏目漱石 「抗夫」
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