ものたらない

森敦
ゴーリキーの「どん底」、あれなどは、そこに登場している誰でもが主役になることができるんだという試みをした、最初の劇だろうと思うんですね。立派な劇ですけれども、だから一幕のときの主人公になれるわけですね。そこまで考えたのはいいんだけれども、たいへんな立派な劇だけれども、僕は、小島さんがなんだか苦しんでいる、そのなんだか苦しんでいるということは、さっき言った、コンパスで円を描いてそしてその円周が内部についていることにすると、中心が一点に決まってしまって、非常に考えやすいわけですね。そしてまたそういうもののなかにも操作はもちろんあります。われわれは、ものを考えると、とらえるときには、そういう考え方をしなければちょっと困ることがあるわけですね。

ところが、われわれの現実という物は、その円周に類するものは、内部にはついていなくて、外部についているわけですね。すなわちどうも演劇ではないことになるんです。それではものたらんとするということになって、なんだかもう一つ違うんじゃないか。その矛盾に苦しんでいるんじゃないか。

小島信夫
普通ものたらないと思うときは、もう少し安直な意味でものたらないと思うところもあるんですね。ちょっとうまく言えないけども、固定したものというものが、作者というものは大なり小なり固定した中心というものをもっていることが美徳でもあり、それから資格でもあるわけですね。それは微妙なもので、本当は歴史的に周囲をみると中心は一つだったと、こういうふうにいえるけれども、実作者は絶えずそれに不満なわけです。それはなぜかといったら、中心にくっつく周りのものも一体になってできてしまうものですから、不自由になるわけですね。だからそこから逃れよう、忘れようというふうにたしかに思うわけですね。その問題は一般的にどの作家にもあると思うんです。それとはもう一つ違った問題があると思うんですね。そのことを森さんは言っておられるんじゃないかと、一つはね。

森 というのは、人生をとらえる場合、いわゆる近傍としてはとらえられないで、円形のなかで幾何学を組み立てるわけですね。それは中心が決まっていますから。ところが、どうも待てよ、われわれがもっと根源的なものに立ち返ると、どうもわれわれは現実に近傍のなかにいるのであって、近傍のなかにいなければ、死生観というようなものも成り立たないんですね。というのは、近傍というのは円周が外部についていますから、内部には境界がないんですから、だからそれは無辺際であるというんです。無辺際であると思っているから生きておれるわけですね。

だから、それは小説などにも、どうしてもとらえるためには、近傍としてどこでも中心になれるというようなとらえ方は、してみても、結局は劇場としてそれをとらえ、それでそこのなかに、もののあわれというか、もの悲しいものが残るわけですね。それは実際は、われわれは近傍にいるのに、近傍としてはそれをとらえることができないという、その根源的矛盾から悲しみというものはわいてくるんじゃないかと、僕は思うんです。あるいは不満などもわいてくるわけです。いかなる方法をとっても、小島さん、わいてきますよ。たまにうまくできたなと思って、ニヤリと笑うこともあるでしょうけれども、それはほんとうの満足じゃないですね。

われわれは実際あした死ぬかもわからんのに、それなのにいつまでも生きるような考えで、泣いたり笑ったりしていますね。その人が生きている間じゅうは、生としての悩みや喜びで生きているわけです。生きている間は生きているわけです。だから、それがないと、われわれは、明日死ぬとか、あさって死ぬとかいうふうに、境界性が内部についてしまえばなってしまうんです。わかったら、これはもうただごとではない。ともあれ、悲しみも喜びも生においてあるということは、そこにはものの境界がないというところにあるんです。だけども、小島さんがこのごろ一生懸命書かれている、その書かれておるものが、これはけっして悪い意味じゃないんですけれども、手さぐりになることがあるでしょう。自分でもわからなくなることがあるでしょう。それで僕は阿頼耶識なんていうことを言い出したんですよ。

小島信夫・森敦 「文学と人生」

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